Column

2026.10.03 9:00

【単独インタビュー】『ナギダイアリー』で深田晃司監督が外部者の視点で見つめた、地方の暮らし

  • Atsuko Tatsuta

第79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に正式出品された、深田晃司監督の最新作『ナギダイアリー』が9月25日(金)より全国ロードショー中です。

自然豊かな町「ナギ」でひとり創作を続ける彫刻家の寄子(松たか子)。そこへ、弟の元妻で建築家の友梨(石橋静河)が、休暇をとって東京からやって来ます。義理の“元姉妹”である二人が、友梨をモデルに彫刻を制作する数日間。妻を亡くした寄子の幼なじみ・好浩(松山ケンイチ)と、その息子・春樹(川口和空)、親友の圭太(藤原聖)との出会いを通して、穏やかだった日常に小さな揺らぎが生まれていき──。

平田オリザの代表作『東京ノート』に着想を得て、岡山県奈義町をモデルとする架空の町を舞台に、9年の歳月をかけて完成された本作。奈義町現代美術館、町に響く自衛隊の砲声、世界の戦争が地方の暮らしに及ぼす影響、そして町で生きるセクシュアルマイノリティの姿。深田監督は、土地に滞在し取材を重ねるなかで得たものを、静かな人間ドラマへと織り込んでいます。

公開に先立ち、深田監督がFan’s Voiceの単独インタビューに応じてくれました。

──脚本が非常に練られた、力の入った作品だと感じました。岡山県の奈義町に何度も足を運び、滞在もしながら書かれたそうですが、脚本はどのように開発していったのでしょうか?
脚本の開発に関して言うと、今回は自分の中では比較的珍しく、場所から発想して作っていきました。作品としては『海を駆ける』に近いかもしれません。これまでも地方で映画を撮ることはありましたが、大抵は脚本が先にあって、それに合わせてロケ地を探し、撮影場所としてお借りするという順序でした。

今回はもともと、平田オリザさんの『東京ノート』を奈義町現代美術館で映画化できないか、という話から始まりました。『東京ノート』は現代口語演劇の代表作のひとつで、美術館を舞台にした僕も大好きな戯曲です。劇場だけでなく、実際に美術館のロビーなどでも上演されてきたので、その延長線上で奈義町現代美術館でも映画化できるのではないか、という話になったのだと思います。

それで一度、現地を見に行くことになりました。最終的には『東京ノート』からいったん離れ、ほぼゼロベースで脚本を作ることになりました。『東京ノート』からオマージュのような形でいくつかの設定を拝借してはいますが、奈義町に通い、時には滞在しながら取材を重ねて作っていきました。ここまで徹底して場所をモチーフに作品を作ったのは初めてだったので、自分にとっても新鮮でした。

──最初に奈義町現代美術館を訪れた時、どのような印象を持ちましたか?
とても面白かったです。奈義町現代美術館は、本当に誰にでも「一生に一度は行った方がいい」と勧めたくなるような美術館です。他の美術館と比べても、非常に固有性が高い。磯崎新さんが設計し、荒川修作さんとマドリン・ギンズさん、宮脇愛子さんらの作品が、空間そのものを美術品として成立させています。土地に根ざした建造物ですから、そこへ東京からスタッフを連れてきて「ここは東京です」として、東京を舞台にした映画を撮るのは、あまりにももったいないと感じました。人口約6,000人弱ののどかな風景の中に、幾何学的で現代的な美術館が突然建っているという組み合わせも面白く、それで『東京ノート』から離れ、奈義町を舞台にした映画にしようと動き出しました。

町そのものも、とてもユニークでした。初めて行った日に公道で戦車とすれ違って、驚きました。ここは自衛隊と共存している町なのだと感じました。戦車といえばキャタピラのイメージでしたが、日本の公道を走れるようにゴムタイヤを履いていました。

ただ、軍用車両以上に強く印象に残ったのは、砲声です。劇中で聞こえる砲声は奈義町で録音したものです。毎日鳴っているわけではありませんが、演習のある日は朝から夕方まで響いている。音そのものに強いインパクトがありますし、奈義町の人たちが完全に慣れていて、まったく反応しないことも新鮮でした。

──ジョナサン・グレイザー監督の『関心領域』が収容所の存在を主に音で意識させたように、本作でも砲声が、日常と戦争が隣り合っていることを感じさせます。音によって戦争との距離を描くことは、どのように考えましたか?
音はとても重要でした。自衛隊の基地があるのだから、基地そのものを映す選択肢もありましたが、この映画では冒頭に軍用車両を見せた後は、砲声でその存在を聞かせる。そして、ウクライナでの戦争を映像として無造作に提示する流れにしました。のどかな景色と戦争を異物として一つの作品内で衝突させる、いわば原始的なモンタージュを行いたいと思いました。そこには、戦争との距離をどう描くかという、いくつかのレイヤーがあります。

日本に住んでいると、戦争はなかなか身近な存在ではありません。報道を通じて知る出来事になりがちです。出発点となった『東京ノート』も同じ構造で、1990年代に書かれた戯曲ですが、ヨーロッパで戦争が起き、戦火を逃れた美術品が日本の美術館へ運ばれてくる。その美術館を訪れる人の中には、軍事作業に関わる人もいる一方、日本にいる人々にとって戦争は遠いものとして描かれています。

しかし、実際には影響があります。この映画でも、戦争の影響で飼料価格が高騰し農業や畜産業に影響が出ていることが、防災無線を通じて語られます。奈義町では自衛隊の砲声が日常になっています。
でも、東京に住んでいれば砲声は聞こえません。それはたまたま距離が遠くて聞こえないだけ。自衛隊は、私たちの政治体制や防衛政策と密接につながって存在している。東京に住んでいても無関係ではなく、奈義町や沖縄をはじめ、さまざまな地域がそれを引き受けているにすぎません。東京にいると、そのことさえ忘れてしまい、災害があった時に自衛隊を思い出すくらいかもしれません。けれど、本当は戦争と隣り合わせであり、地続きです。『ナギダイアリー』の砲声を聞いて何を思い感じるか、それはそのままその人の戦争との心理的な距離感を映し出しているとも言えると思います。

映画は、境界を少し曖昧にできます。普段は東京に住んでいて聞こえない奈義町の砲声を、映画を通して聞くことができる。観客がいる場所と映画の中の世界との境界を曖昧にできることは、映画の力だと思っています。

──構想から完成までの9年間に、ウクライナ侵攻やイスラエルとパレスチナをめぐる状況など、世界情勢は大きく変化しました。作品にはその変化をどのように取り込んでいったのでしょうか?
奈義町に初めて行ったのは2016年で、当時はまだウクライナでの戦争も、その後のイスラエルとパレスチナをめぐる状況も、すでに始まっていたとも言えますが、今とはだいぶ異なりました。自衛隊を描くことは当初から考えていたので、それを通じて外の世界で起きている戦争を示唆するアイディアはありました。

そうこうしているうちにウクライナで戦争が始まり、奈義町にも戦争を逃れて来た人がいることを知りました。ロシア側から来た方もいます。図らずも、『東京ノート』の世界観に時代が追いついてきたように感じました。劇中にバラライカの演奏があるのも、そのことと関係しています。そこで、ウクライナでの戦争の映像をはっきり示し、外で起きている暴力や戦争を連想させる展開に変えていきました。9年もあれば時代は変わるので、その変化を取り込みながら作りました。

ポストプロダクションの頃に恐ろしいと感じたのは、ウクライナとロシアの戦争が終わっていないにもかかわらず、自分の中でさえ、ふと過去のことのように感じる瞬間があることです。奈義町には戦争を逃れて来た方がいて、ウクライナに住んでいた親戚が亡くなったという話を今年になってからも耳にしました。戦争はまったく終わっていないのに、情報はどんどん上書きされていく。ガザでの酷い虐殺が起きると、ロシアとウクライナの戦争が終わったかのように過去のことになってしまう。意識を更新し続けることの難しさを感じています。

──カンヌでは、砲声とウクライナでの戦争を重ねているのかと質問されたそうですね。ヨーロッパの観客には、この作品の戦争の描写はどのように受け止められたのでしょうか?
砲声をウクライナとロシアの戦争のイメージと重ねているのか、という質問はありました。僕は「重ねています」と答えましたし、演出上も意図的につながるように作っています。地政学的に考えれば、日本にとって身近なのはアジアでの戦争なので、ヨーロッパの人からすると、アジアの映画の中でロシアとウクライナの戦争が報道映像として示されることを不思議に感じるかもしれません。

でも、それは奈義町にとって現実の日常です。海を越えた遠い戦争を無理に持ち込んだのではありません。奈義町で取材をすると、戦争の影響で飼料価格が上がり、牧場を閉じざるを得ないかもしれないほど悩んでいる農家がいる。一方で、戦争を逃れて避難してきた方もいる。戦争は実際に日常へ影響しています。

日本にいると、どうしても画面の向こうの出来事として受け止め、実感しづらい。むしろ奈義町のような場所だからこそ、余計な情報が少ない分、戦争が暮らしに及ぼす影響がクリアに見えてくるのかもしれません。

──本作には、寄子と友梨、春樹と圭太、そして像が逆さまに映るカメラオブスクラなど、対比や反転の構造が見えます。カメラオブスクラを登場させたのは、登場人物たちの反転構造を意識してでしょうか?
「反転」という意味をそこまで強く意識していたわけではありませんが、逆さまに映ること自体は面白いと思っていました。カメラオブスクラは『東京ノート』にも登場します。実物が出てくるのではなく、学芸員がそれについて話す場面があり、そこが出発点です。

自分自身、この10年ほど、学校などで映像ワークショップをする時に、カメラオブスクラを扱ってきました。今回、『東京ノート』を出発点に『ナギダイアリー』を作るなら、映画の中に出したいと思いました。映画の原点を映画の中で撮れるなんて、映画監督としては興奮しないわけがありません。

カメラオブスクラの中は暗く、スクリーンのように開いた窓に映像が見えるので、まるで映画館のようです。それを覗き込む圭太と春樹の姿も、映画館で映画を観ているように見える。しかも、暗箱の中に映っている世界が、そのまま見ている人の主観の視点にもなる。それはとても示唆的で、面白いと思いました。

──寄子と友梨の対比には、どのような意味を持たせましたか?
そこははっきりと意識しています。寄子は地方のコミュニティの中で暮らし、友梨は東京からやって来る。僕は東京生まれ、東京育ちで、地方で暮らした経験がほとんどありません。今回、奈義町には約10カ月滞在して脚本を書きましたが、それでも、たかが10カ月です。作り手は自分の出自から逃げることはできない。どれだけ国際派監督のような顔をしてみせても、自分が日本の東京という文化圏で育ったことからは逃れられません。それを前提として受け入れた上で、どう世界を見るのかを考えなくてはいけないと思っています。

寄子はセクシュアルマイノリティとしての属性を持っています。一方、僕はヘテロセクシュアル、シスジェンダーであると自認しています。僕が同性愛者の立場を代弁できるとは思っていませんし、簡単にそう思うべきでもないと思っています。だからこそ、友梨の視点が大切でした。友梨の視点を通してナギを、そして寄子を描く。そこに東京と地方という対比も生まれます。

一方、取材を重ねて映画を作ろうとすることで、自分自身の地方に対する解像度が上がっていっている実感はありました。フィクションでは、田舎暮らしのネガティブな面や、村社会の閉鎖性が描かれがちです。地方に今なお残る父権性や閉鎖性は、当然、批判的に捉えられても致し方がないと思います。ただ、取材を続けるほど、そうならざるを得なかった土地の生活と歴史も見えてきます。

奈義町はもともと水源が少なく、地元の人々がため池を作り、水路を引いてきました。その水路は誰かが管理しなくてはいけない。土地の人たちが生活を削り、時には命がけで守ってきたものです。そこへ東京から移住してきた人が、消防団など地域の役割には関わらずに、水路だけ使わせてほしいと言えば、地元の人が複雑な気持ちになるのも理解できます。土地に対して何かを負担しているかどうかは、理屈だけでは片づけられません。「地方は閉鎖的だから良くない」と一行でまとめられるようなことではない。そのことを、(脚本を)書きながら感じていました。

──寄子と、春樹・圭太という若い世代の間にも対比があります。これは、セクシュアルマイノリティをめぐる世代間の変化を示しているのでしょうか?
セクシュアルマイノリティに対する差別の連続性に目を向ければ、自然な対比だと思います。セクシュアルマイノリティへの差別や偏見、社会の中でカミングアウトすることの難しさは、東京にいると、ややもするともうだいぶなくなったと言われがちです。時には「そんなものはもうない」と極端なことを言う人もいます。でも、実際には今もあります。

LGBTQ+の方に取材をすると、東京では同性の恋人と暮らしていても、地元の両親にはまだ話せていないという人がいます。両親と仲が悪いからではありません。カミングアウトすると、地方のコミュニティの中で、その事実を両親に隠させることになる。秘密を抱えさせることが親にとって大きなストレスになるから言えない、というわけです。

そうした状況は今もあり、寄子の世代であっても、春樹や圭太の世代であっても、問題が続いていることを示すことに、この対比は繋がります。

──本作では、監督ご自身とは異なる土地や属性を持つ人々を描いています。アウトサイダーの視点から描くことを、映画作家としてどのように考えていますか?
この作品にLGBTQ+の人物は登場しますが、LGBTQ+が作品の「テーマ」だとは考えていません。LGBTQ+の属性を持つ人たちが登場し、彼らが抱えている葛藤を等身大に描いている。そうした人たちが登場人物として当たり前にそこにいることが大事です。

奈義町で多くの人に取材をし、さまざまな話を聞きましたが、唯一出会えなかったのがセクシュアルマイノリティの人たちでした。統計的に考えれば、いないはずはありません。ただ、カミングアウトしている人が圧倒的に少なく、透明化せざるを得ない状況がある。

表現には、社会の中で人々を可視化し、透明化にブレーキをかける役割があると思っています。これは、この作品や自分の作家性だけのテーマではありません。映像は拡散力が強く、社会の表象イメージに大きく影響するため、あらゆる映像表現が負う責任です。映像は、社会に特定の人がいないかのようなイメージさえ作り出せてしまう。特に映画や映像は影響力も強く、また資本の原理に大きく依存しています。多くの人に観られなければ成り立たないので、どうしてもマジョリティに向けた表現になりがちです。だからこそ、そういった構造を内面化することで是認せず、マイノリティの存在を意識化していく必要があると思っています。

男女の恋愛が描かれても「なぜこの人たちはヘテロセクシュアルなのですか」とは聞かれません。シスジェンダーの人物が登場しても、「なぜこの人はシスジェンダーなのですか」とは問われない。マジョリティにとって当たり前すぎるからです。しかし、セクシュアルマイノリティが登場すると、「なぜこの人物を登場させたのですか」という質問が出てくる。マイノリティだからこそ、そう問われるわけです。

それを解決する方法は、当たり前のようにマイノリティが登場する作品を増やすことしかないと思います。特別な理由がなくてもLGBTQの人物が登場し、彼らの葛藤がセンセーショナルなものとして消費されるのではなく、当たり前のこととして描かれていく必要があります。それが繰り返されれば、10年後、20年後、30年後には、「なぜこの人はセクシュアルマイノリティなのか」「なぜトランスジェンダーなのか」という問い自体が無効になる社会が来るかもしれません。

──当事者が描くことには大きな意味がありますが、深田監督のように非当事者の作り手が描くことにも意味がある、ということでしょうか?
やはり当事者が自ら描くことが、より意義のあることだと思っています。当事者が表現の主体になれる環境や制度を整えていくことは、とても重要です。その上で、表象を増やすという意味では、当事者と非当事者の両方が描いていいと思います。

ただ、作り手としての誠実さを考えれば、自分の限界を認識する必要があります。よほど描けるという自信があればまた別なのかもしれませんが、今回は、ヘテロセクシュアルである自分の視点からセクシュアルマイノリティと出会っていく構造にしました。それが自分の限界だと思っているからです。友梨や好浩の視点には、自分の視点が重なっています。

非当事者が描くことに慎重になるのは、決して間違っていません。その慎重さは必要です。ただし、描かないこととは別です。当事者が表現の主体になれる環境を全力で整える一方で、セクシュアルマイノリティの登場が当たり前になるためには、マジョリティ側の作り手もきちんと描かなければ絶対数は変わりません。「なぜこの人たちはセクシュアルマイノリティなのか」という質問を無効にするには、表象そのものが当たり前になっていく必要があります。批判が出ればヘコむかもしれませんが(笑)、それは真摯に受け止めるしかないと思っています。

──寄子と友梨は共に物語の中心にいますが、終盤に向かうほど友梨が主人公だったようにも感じました。監督は、誰を主人公として脚本を書いていたのでしょうか?
脚本を書いている時に、誰が主人公かを考えることはほとんどありません。あえて言うのなら、役割としては、寄子と友梨、二人とも主人公だというくらいの気持ちでした。

ただ、脚本を書きながら、もし同性婚が認められたら脚本を変えなくてはいけないと思っていました。残念ながら、そこは変わることなく、今の脚本のままになりました。

──寄子役の松たか子さんと、友梨役の石橋静河さんとのコラボレーションはいかがでしたか? 演技は狙い通りだったのでしょうか?
面白かったです。正直、常に狙い通りになることはありません。むしろ監督の狙い通りにならない方が良いと思っています(笑)。今回は松さんと石橋さんにオファーし、リハーサルで芝居を探っていきましたが、想像以上の効果が生まれました。

寄子は、父権性の強い地方で暮らし、独身のまま中年期を迎えている女性です。周囲は勝手にそこに影や生きづらさみたいなものを感じてしまいかねないキャラクターですが、松さんは非常に飄々と、ポジティブに明るく演じてくれました。そのことで、「地方で生きる独身女性」というステレオタイプから外れてくれた。一方で、中学生たちと向き合う時には、どこか覚悟や痛みを感じさせる顔になる。その振幅がとても面白かったです。

石橋さんが演じた友梨は都会から来た女性で、地方に比べれば多くの選択肢の中で自由に生きてきたはず。それでも、男性社会の父権性を内面化し、そのことに葛藤している。石橋さんは非常に凛とした、端正な芝居を見せてくれました。寄子を飄々と演じる松さんとの対比が、とても面白かったです。

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『ナギダイアリー』(英題:Nagi Notes)

出演:松たか子、石橋静河、川口和空、藤原聖、藤間爽子、水間ロン、申瑞季、松山ケンイチ
監督・脚本 深田晃司
製作:四宮隆史
エグゼクティブ・プロデューサー:大野二郎、Guillaume Morel、Jossette Atayde、Maria Sophia Atayde Marudo
プロデューサー:大野敦子、長井龍、角田道明
コ・プロデューサー:小山内照太郎、Carine Chichkowsky、陈思恩、佐藤央
International Sales:mk2 Films
助成:Aide aux cinémas du monde – Centre national du cinéma et de l’image animée – Institut français、文化庁文化芸術振興費補助金(日本映画製作支援事業)独立行政法人日本芸術文化振興会、White Light Studio、mk2 Films
後援:奈義町
製作:スターサンズ、八朔ラボ、Survivance、Momo Film Co.、Nathan Studio、ワンダーストラック
制作プロダクション:Lat-Lon
2026/日本、フランス、シンガポール、フィリピン/ヨーロピアンビスタ/5.1ch/カラー/110分/G

日本公開:2026年9月25日(金)より新宿ピカデリー、ユーロスペース ほか全国ロードショー
配給:スターサンズ
公式サイト
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