Column

2018.04.28 14:42

【インタビュー】カンヌを制覇した話題作『ザ・スクエア 思いやりの聖域』オストルンド監督に聞く!

  • Mitsuo

『フレンチアルプスで起きたこと』(15年)で世界的な注目を浴びたスウェーデンの鬼才リューベン・オストルンド監督。新作『ザ・スクエア 思いやりの聖域』は、美術館を舞台に、主人公が巻き込まれる不条理な出来事を通して、人間の本質に迫る悲喜劇です。

第70回カンヌ映画祭でパルム・ドール(最高賞)受賞、ヨーロッパ映画賞では最多6部門を制覇、第90回アカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされるなど多くの映画賞を受賞しました。

公開を前に緊急来日したオストルンド監督に、観客の意表を突くシーンや”動物”に込められた意図を伺いました。

――物議を醸し出した美術館での晩餐会のシーンの意図は?また、観客からはどんな反応がありましたか?

「あのシーンの冒頭では、”まもなく野生の動物が現れます”というアナウンスが入りますが、これは”傍観者効果”を説明しているものです。人間は群れをなす動物で、大勢の人がいる公共の場でなにかが起こると、誰が対処すべきなのかわからず、麻痺してしまい受け身になってます。そしてその後、”なぜもっとヒーローのような行動をとらなかったのだ”と個人が責められたりします。ですが、我々は根本的には群れの動物ですので、そういった行動をとってしまうのです。”傍観者効果”とは、”自分ではなく他の人を狙って”という我々の心理を指摘しているもので、自分たちのこうしたパターンを破るには、行動学視点から自分たちの性質について知ることが大切だと思います。私が社会学に大変興味があるのは、こうした視点で私たちを見つめるからです。

晩餐会のシーンでは、始めはみんな、アナウンスを聞いてにこやかに笑っていますが、最終的にはなるべく気づかれないように小さくなって座っています。これはまさに”傍観者効果”現れているのです」

――あえて”野獣”を選んだ理由は?

「それを理解するには、自分たちも動物だということを思い出さないといけませんまた私自身、猿を愛していますし、人間は猿を大好きなのだと思います。”猿を見て我が身を振り返る”というか。猿には文化がなく、本能とニーズだけに基づき行動します。それを見ている人間には救いになると思います。人間と違い、恥もありませんし。人間は自分の本能やニーズに沿って行動することに恥を感じることがあるので、それがない猿を見てホッとするというところがあると思います

これまでの私の映画のほとんどは、”面目を失うことを怖れる”人たちを描いています。前作の『フレンチアルプスで起こったこと』では、雪崩から家族を捨てて逃げた父親が、後に家族と対面したときに、父親としてすべき行動をとらなかったことに向き合わなければなりません。一方で、猿ならば恥じることなく雪崩から逃げますよね。私の映画は「恥」が大きなテーマなのです。人間が感じる「恥」とはとても興味深いものだと思います。

ちょっと前に韓国のフェリー事故で生徒たちが亡くなり、教師ひとりが生き残ったという事件がありましたが、1ヶ月後その教師は自殺してしまいます。生存本能で生き残ったのでしょうが、その後恥を感じてしまったのではないでしょうか。生き延びた時は恥よりも生存本能が強かったのに、後にそれが逆転し、恥に打ち勝てずに自殺してしまうという、それほど「恥」が強い影響を持つ動物は他にはいないと思います。人間のこうした面に私は興味があります。恥がない猿とは全く縁のない話ですがね(笑)」

――面目についての話がでましたが、カンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞し、さらにアカデミー外国映画賞にもノミネートされるなど、注目を浴びる中で、自身の面目を守ることに対しプレッシャーを感じることはありますか?

「『ザ・スクエア』は私にとって5作目の長編作品ですしこれまでの経験もあることから、次作に向けても、自分なりのやり方で進めて大丈夫だろうという安心感はあります。
周りからの期待がプレッシャーになるということもなく、ただただ注目を浴びることができて嬉しく思っています。パルム・ドールやオスカーが重要なのは、大勢の注目の矛先が映画の中身に向かう点にあります。映画を作る目的とは、自分が”おかしい”と思うことを人々に気づかせ、議論を生み出し、人々の心を動かすためですので。

もしこれが自分にとって1,2作目だったら、もちろん大変なプレッシャーになると思います。まだ自分なりの手法を確立できていないのに、その先どうしていこうか迷ってしまうと思います。これまで、若い時に大成功してしまい、その後モチベーションを失ってしまった監督たちをたくさん見てきました。彼らは過去の成功を繰り返そうとするのです。自分は、興味の対象を作品の中身にするアプローチを見つけたので、映画作り自体が楽しく、こうして受賞までできることは本当に光栄に思います」

――映画の中では様々なスクエア(四角形)状のものが登場しますが(階段を上から撮るなど)、監督にとって映画のフレームとはなんなのでしょう?

「広場のような公共の場に”スクエア”があると、非常に目立つし注目を浴びます。そこに立つことで人々の目を引くわけです。人々からの助けや注目が必要なら、そこに立つことで得られるというのが、このスクエアの利用価値のひとつです。フレームも同じで、フレームを通すことでなにかを露出させる、見せるという効果があります。

また私は、スクエアの”境界線”も同じくらい重要と考えます。スクエアの内にも外にも存在することができるというのは、国境の内側と外側のようなものです。例えばスカンジナビアの国々はここ10年ほど移民関連の様々な課題と向き合っています。スクエアの中では誰にも”平等の権利と義務”があるとなっていますが、外にいるたくさんの人たちはどうでしょうか。私たちの義務の境界はどこにあるのでしょうか。スクエアの内側には、”外”の世界で起こる様々なことに対して私たちが同じ人間としてどこまでの義務が負うのかという姿勢が反映されるのではないかと思います。

映画のタイトルが『ザ・スクエア』なので、観客は映画の中で様々な四角形のものに目が行きがちですが、それらは必ずしも意図したものではなく、特に何かの象徴や隠喩として使っているわけではありません」

――監督は、映画を社会学のひとつとして捉えているのでしょうか?それともアート?アーティスティックな映画でしたが。

「私は社会学の方がアートより好きです。アーティスティックな映画のように思えたのなら、意図したものではありません」

――チアリーダーのシーンでは、集団はチームワークにもなり希望となるということが示唆されました。日本はチームワークの国と言われると同時に無関心の国とも言われますが、そのバランスをどうとればいいのか。監督はどう思いますか?

「どのようにバランスをとるかには、作品内の表現、『スクエアの中ではすべての人が平等の権利を持ち、公平に扱われる』を引用したいと思います。もちろん我々は集団で非常に強い力を発揮することもあれば、時には狂ったようなクレイジーなこともしてしまいます。集団のチームワークを良い方向に作用させることもあれば、悪い方向に作用してしまうこともあります。これは常にある葛藤です。

日本では国家に対する敬意があるようですが、スカンジナビアでも同様です。一方で、例えばアメリカは個人や家族に全信頼を寄せ、国家からは自由でありたいと考えます。北欧では家族同様に国家を信頼します。ただし、国家が我々にとって良いことをしているのか、我々を正しい方向に導いているのかという葛藤が、常に残ります。

例えば交通規則は興味深いと思います。日本は道路の左側運転ですが、考えてみると、誰もがきちんと左側を運転しているのは素晴らしいと思いませんか?スウェーデンは右側を運転しますが、公共の同意をみんなが尊敬しているということです。人々の行動に影響を与える社会的契約になっているのです。横断歩道も素晴らしい例だと思います。数本の線を引くだけで、車は歩行者に気をつけるようになります。社会的契約を作ることで、私たちの行動は変わっていくのです。またスウェーデンでは、1967年に車が走行する位置を道路の左側から右側に一晩で変更したのですが、その週はそれまでで交通事故件数が最も少なくなりました。交通規則は、人間が持つ素晴らしい能力を私たちに示しているのです」

――この映画ではアーティストの名前(ローラ・アリアス)が出てきますが、本人が登場することはありませんでした。なぜですか?

「それは、主人公のクリスチティアンに、この人道的なアート作品の精神を担ってもらいたかったからです。そういった精神を語るアーティストを紹介する役回りではなく、ですね。

彼がスクエアのコンセプトや精神を説明すればするほど、彼自身が私生活でこの作品が謳うモラルや倫理に反する行動を後にとったときに、対比が明確になります。これがアーティスト自身を登場させなかった理由です。また世界中を巡回するようなエキシビションでは、都市の規模によってはPR目的でアーティストが来ない場合もありますので、必ずしもマーケティングにアーティスト自身が関わるわけではありません。

実は記者会見の後にクリスチティアンが新聞をめくっているシーンにはカットした部分がありました。アーティスト本人から電話がかかってきて、クリスチティアンは何を言われるか心配になるのですが、アーティストは”素晴らしいキャンペーンでしたね”と言うのです」

――クリスチティアンが「スクエア」の説明をする際、ローラ・アリアスというアルゼンチンのアーティストで社会学者が、ニコラ・ブリオーの「関係性の美学」に触発されて作ったと言っています。「スクエア」はあなたのプロジェクトなのに、このローラ・アリアスという実在する人物の名前を使用したのはなぜですか?

「ニコラ・ブリオーを知ったのは、「スクエア」のインスタレーションを制作した後、脚本を書いている途中でした。「スクエア」のインスタレーションはスウェーデン2都市とノルウェー1都市で展開していて、スウェーデンではもうすぐ4都市になります。インスタレーションの後、リサーチをする中でブリオーについて知り、このアート作品と映画をつなぐのにちょうどよいと思いました。

ローラはアーティスト役として登場する予定で実際に撮影も行いましたが、後にカットすることにしました。そしてアート作品の説明はクリスチティアンが行います。彼女の名前が登場するのはこのためです」

――その実際に存在するアート・インスタレーションの「スクエア」で人々はどのような行動をとるのでしょうか?

「マニフェスト表明の場となることが一番多いです。例えば、最初の「スクエア」をバーナモという街に設置したのは2015年のことで、今年で3周年になりますが、例えば機能的障害を抱える方が社会保障を失ってしまった時にスクエアで声を上げ、新聞が写真を撮ってレポートしたりしました。またスウェーデンから追放された移民が、その決定に対するデモをするため「スクエア」に集まったりしました。「スクエア」は、こうした人道的な主張を唱える象徴的なマニフェストの場となりました。自分はもっと”横断歩道”のような(社会的契約の)場所になることを期待していたのですがね。

交通標識がすばらしいのは、政治や宗教に関わらず、我々の行動は変えることができると示していることです。スクエアを使う彼らの行動を私がコントロールできませんが、ある種のムーブメントに発展したことは嬉しいですし、今後どうしようかと考えさせられます」

――クリスチティアンには、モデルとなる人物はいましたか?いないのなら、どのように演出しましたか?

「クリスチティアンは、一般的な人として描きたかったです。私たち同様、クリスチティアンは、平等の権利や義務といった人道的テーマを信じながらも、自分の中で葛藤を抱えています。様々な困難に彼は向き合わなければなりませんので。

映画を監督する時、自分がキャラクターと同一視できないと、失敗してしまったと感じます。クリスチティアンを見て、”バカなことをしているな”と感じても、”自分でもきっと同じことをやってしまう”と思えないと失敗なのです。

クリスティアンを特別なキャラクターとしてではなく、自分と捉えるのです。同様に、アンも私として。これは、全てのキャラクターに対して言えます。”クリスチティアンだから”なにかをするという、特定の性格を与えないことは非常に重要です。そうではなく、観客にも”自分も彼と全く同じことをしてしまうだろう”と感じて欲しいのです」

==

『ザ・スクエア 思いやりの聖域』(原題:THE SQUARE)

監督・脚本・編集/リューベン・オストルンド
製作/フィリップ・ボベール、エリック・ヘンメンドルフ
キャスト/クレス・バング、エリザベス・モス、ドミニク・ウェスト、テリー・ノタリー、クストファー・レス
2017年/スウェーデン、ドイツ、フランス、デンマーク合作/英語、スウェーデン語/151分/DCP/カラー/ビスタ/5.1ch/日本語字幕:石田泰子

日本公開/2018年4月28日(土)全国順次公開
配給/トランスフォーマー
公式サイト
© 2017 Plattform Produktion AB / Société Parisienne de Production / Essential Filmproduktion GmbH / Coproduction Office ApS