【単独インタビュー】『シラート』オリベル・ラシェ監督が描く、“死ぬ前に死ぬ”変容の旅
- Atsuko Tatsuta
※本記事には映画『シラート』の重大なネタバレが含まれます。
第78回カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞し、第98回アカデミー賞で音響賞と国際長編映画賞にノミネートされたスペイン映画『シラート』が6月5日(金)に日本公開されました。

砂漠で行われるレイヴパーティに参加したまま失踪した娘を探すため、モロッコの山岳地帯から砂漠の奥深くへと車を走らせる父ルイス(セルジ・ロペス)と息子エステバン(ブルーノ・ヌニェス・アルホナ)。行き着いたのは、現実と幻覚が混濁するような野外レイヴのカオス。耳をつんざく重低音、赤い照明の海、沈黙を貫く父親の背中。だがそこにはすでに娘の姿はなく、父と息子は、レイヴの参加者グループを追って、娘が向かったと思われる次のレイヴ会場を目指すが──。
監督は、これまでも『ファイアー・ウィル・カム』(19年)などで、人間と自然、共同体、信仰のあり方を見つめてきたスペイン出身の気鋭オリベル・ラシェ。本作ではカンヌでの記者会見で、「“シラート”とは地獄と楽園を結ぶ橋であり、変容のための道です」と語っており、娘を探す父親がモロッコの砂漠でレイヴ集団と行動をともにするという物語は、一見、ロードムービーのスタイルをとりながら、その旅路は次第に喪失や孤独、そして自己変容をめぐる精神的な巡礼へと姿を変えていきます。

昨年のカンヌ国際映画祭では審査員賞、サウンドトラック賞、AFCAE賞スペシャルメンション、パルムドック賞の4冠を達成。ヨーロッパ映画賞では最多ノミネートを果たし、音響賞、撮影賞、編集賞、キャスティング賞、製作賞の最多5冠を獲得。スペインのアカデミー賞と言われるゴヤ賞でも11部門にノミネートされ最多6冠を達成、さらに米アカデミー賞では5部門でショートリスト入りし、国際長編映画賞に加え女性だけで構成された音響チームとして史上初めて音響賞へのノミネートを果たしました。
公開に先立ち、東京国際映画祭での上映にあわせて来日したラシェ監督が、Fan’s Voiceの単独インタビューに応じてくれました。

──『シラート』は今回のカンヌ国際映画祭で観た中で最も衝撃的な作品でした。
それは嬉しいですね。ありがとうございます。
──まず、タイトルに引用されている「シラート」という言葉の解釈を、改めてお伺いしたいと思います。本来は「道」という意味があるそうですが、この言葉から映画のアイディアが始まったのでしょうか?
私が『シラート』で表現しようとしたことを、実に見事に言い表している言葉(フレーズ)があります。「死ぬ前に死ぬ(Morir antes de morir)」。これは、世界中にある多くの精神伝統の根幹、特に「スーフィズム(イスラム神秘主義)」の根底にある教えです。つまりこれは、「自分のエゴ(自我)をコントロールする」ための実践を意味しています。エゴを完全に殺すことはできませんが、ある意味で自分自身が一度死ぬということです。
この映画における私の意図もそこにありました。私自身の「死」を実験(体験)してみたかった。つまり、成熟し、成長するということ。そして、より自由になるということ。観客の皆さんにも、映画を通じてそのプロセスを一緒に体験してほしいと考えました。ですから、皆さんにとっては時に「苦い薬」のようにも感じられるかもしれませんが、必要な薬なのだと思ってこの映画を作りました。
──「シラート」という言葉は、どのようにして知ったのですか?
「シラート」は、聖典コーランの中に50回ほど登場する言葉です。また、イスラム教徒のお祈りの中でも毎日2回は唱えられる言葉なので、彼らにとっては非常に日常的な言葉です。本来は「シラート・アル・ムスタキーム(Sirāt al-Mustaqīm)」と言い、「まっすぐな道(正しい道)」という意味を持っています。例えるなら、それは「英雄の道」であり、「精神的な戦士の道」です。

──主人公ルイスの姿には、どこか「ドン・キホーテ」的な、愚かさと純粋さが同居する人物像が重なって見えました。
そうですか(笑)。ドン・キホーテもまた一つの元型ですね。ただ、ドン・キホーテは「狂人」の原型ですが、私としてはこの映画では「英雄」的な元型を意識しました。
「シラート」とは「道(ヴィア)」そのものです。「シラート」と同じ意味を持つ言葉に、中国の思想である「タオ(道:Tao)」があります。「シラート」は、イスラム世界における「タオ」にあたる言葉だと言えますね。おそらく、日本の「禅」や精神世界の中にも、これに対応する言葉があるのではないでしょうか。それは物理的な道であると同時に、精神的な道、つまり「形而上学的な道」であり、最終的には自分自身の「内面へと続く道」なのです。
──本作は、レイヴのシーンから始まります。あなた自身にはレイヴカルチャーのバックグラウンドがあるのですか?
私は思春期の頃、お手本になるような存在が周囲にほとんどいない環境で育ちました。私たちの世代はロールモデルを持たない世代であり、「この世界はもう持続可能ではない、いつか終わりが来る」という感覚を、幼い頃から皆どこかで抱いていました。私もその世代の一人です。
そのため、私は常に一種のカウンターカルチャーの中に身を置いていましたが、最初から具体的にレイヴにどっぷり浸かっていたわけではありません。何年も経ってから、モロッコのパームヤシに囲まれた場所(パルメラル)に住んでいた時に、レイヴが開催されました。フランス人たちが主催していたのですが、その時に初めてレイヴというものに深くコネクトしました。それ以降、何度もレイヴに足を運ぶようになりました。純粋に踊ることやエレクトロニックミュージックが好きだったということもありますが、その時にはすでに、この映画の構想が頭の中にあったからでもあります。

私は、いわゆるクラブカルチャーよりも、この「レイヴカルチャー」や「フリーパーティー」のほうが断然好きです。私は一人のアーティストですが、自分自身という存在にとても疲れを感じることがあります。クラブに行くと、DJがまるで神のように崇め奉られていて、フロアの人々はスマホばかり見て写真を撮り合っていますよね。そこにはお互いを意識し合う「過剰なエゴ(自我)」が渦巻いているように見えて、私にはそれが心地良くない。
一方で、レイヴカルチャーはもっとアンダーグラウンドです。崇拝されるようなDJはおらず、あるのはただスピーカーだけ。ダンスフロアは、エゴが削ぎ落とされた空間です。だからこそ、そこでは人々が自分自身の「傷」をさらけ出すことができる。そこには激しいエネルギーがあると同時に、非常に傷つきやすい脆弱性もあり、そしてお互いをケアし合う感覚があります。私はそこに深く共感します。そこには“見せかけ”のものがありません。

──レイヴに参加している人々を外側から見ると、まるでトランス状態にあるようにも見えます。ある種の「瞑想効果」があるということなのでしょうか?
素晴らしい質問ですね。私たち人間の身体には「記憶」が刻まれています。レイヴで人々がやっていることは、実は人類が何千年も、何万年も前からずっと行ってきたことと同じ。それは、「自分の身体を使って祈る」という儀式です。これは社会にとって必要な行為であり、一種の「浄化」や「心の排泄(カタルシス)」のようなものです。自分たち自身の手で社会そのものを守るための方法でもあり、非常に重要な意味を持っています。
古代ギリシャ人にとって、演劇は単なる「エンターテインメント」ではありませんでした。彼らは劇場に「祈り」に行っていた。それは完全に神聖な儀式であり、精神的な修行でした。私にとっても、そうした行為は生きていく上で必要なことでした。
──この映画の中には、スペイン語だけでなく、フランス語や英語など、いくつもの言語が登場します。また、登場人物がどこの国の人なのか、意図的に分からないように演出されているように感じました。さらに、「軍隊」と「レイヴに集まる人々」との対比が描かれています。監督はスペイン生まれですが、モロッコにも長くお住まいだったと伺いました。この「多民族の混ざり合い」と「軍隊」の対比という光景は、監督のモロッコでの個人的な体験に基づいているのでしょうか?
この映画に「善と悪」の対立はないと考えています。軍人たちはただ自分たちの任務をこなしているだけですし、そこには普通に子どもたちもいます。これまでの映画のように「アラブ人やムスリム=悪者」というお決まりの構図にはしていません。むしろその逆です。時として私たちは自分たちの「殻」に閉じこもって生きていますが、過酷な現実が私たちを目覚めさせてくれる、ということを描きたかった。

──あの軍隊の人たちは何をしているのですか?
彼らはパーティーの参加者たちをあの場所から退去させているのです。でも見方を変えれば、彼らを危険から「保護している」のかもしれない。そこには治安維持のための秩序があります。
いずれにせよ、私は「多文化主義」について語るのが好きです。私自身、フランスで生まれましたが、両親はスペインのガリシア出身です。そしてモロッコにも10年以上住んでいました。私はさまざまな土地の「訛り」の映画監督だと思っています。そして、カルチャーの本質とは「混ざり合うこと」です。スペイン人である私にとって、隣国であるモロッコに住んだことは非常に豊かな経験でした。多くの文化を共有している国ですからね。私たちスペイン人自体が、歴史的にユダヤ人、ムスリム、北アフリカ人、バイキングなど、あらゆる人種の混ざり合いから生まれた子孫なのです。カンヌ(映画祭)で賞をいただいた時のスピーチでも、私はこの話をしました。
私たちが今向かっている世界、そして映画の終盤の「列車」のシーケンスが象徴している世界についてお話ししましょう。今、時代は私たちをある種の「深淵(アビス)」へと押し流そうとしています。しかし、それこそが私たちの「救い」になるかもしれない。これから生きることがどんどん難しく、過酷になっていく中で、人生は私たちに「人間であるとはどういうことか」を問いかけてくるでしょう。
私たちは、この映画が描いているように、お互いの「傷」という次元で深くつながる必要があります。そこに至れば、社会階級も、ジェンダーも、国旗も、人種も、すべてどうでもよくなります。生き残るためには、お互いの手を強く握り合うしかないからです。唯一の救い、つまり答えは、私たちが「もっと人間らしくなること」。AIの台頭や気候変動など、人間とは何かが揺らいでいる今だからこそ、手をつなぐしかないのです。

──映画の後半で、セルジ・ロペス演じるルイスが茫然自失となって砂漠を一人で歩いていきますよね。あの砂嵐の中で、一瞬、画面にレールのようなものが映し出されたような気がしたのですが。あれは列車の線路だったのでしょうか?
はい、そうです。
──やはりそうでしたか! そして、ルイスは「無心」になって歩き通したからこそ助かった。つまり、彼は過酷な地雷原を越えた先に「希望」を見出した、という意味なのでしょうか?
あなた自身はあのシーンを見てどう感じましたか?
──実は最初にサブリミナルのように登場した時は、それが日本の線路とは形が違うこともあって、何なのかよく分かりませんでした。でも、映画の最後に列車が登場したのを見て、「あっ、さっき砂漠の中で見た鉄っぽいものは線路だったんだ」と繋がりました。だから、あの線路こそが、彼の、そして私たちにとっての「希望の糸」のようなものなのかなと感じました。
「希望の糸」、アリアドネの糸ですね。素晴らしい。あなたのその解釈、とても気に入りました。これからは私の回答として使わせてもらいますよ(笑)。
──本当ですか?光栄です(笑)。
映画というのは「鏡」のようなものです。観る人自身を映し出す鏡だからこそ、それぞれが異なる解釈をし、異なることを感じ取ります。実は、編集段階であそこに線路の映像を入れた時、私の中に知的な意図や明確な計算があったわけではありません。私は映像が持つ力を信じていますし、映像にはいくつものレイヤーやシンボリズム、普遍的な元型が眠っていることを知っています。
理性によって、つまり私の頭の中でこねくり回して作った映像ではないからこそ、あの映像は今も生き続けている。私の個人的な潜在意識と、人類の「集合的無意識」が繋がっているからこそ、映像が生命力を持っている。私はただ、説明的な重みを与えすぎずに、直感でそこに映像を置きました。映像が生きているからこそ、観客の皆さんがそこにそれぞれの意味を感じ取ってくれるのです。

──中盤で息子と愛犬が命を落としますよね。一般的に欧米の感覚、特にハリウッドというかアメリカ的な映画のセオリーでは、「子どもと犬は絶対に守られなければならない存在」として扱われます。それをあえて覆したあのシーンは、カンヌの観客にとってもかなり衝撃的だったと思います。これは、アメリカ的な映画のポリティカルコレクトネスに対する、監督なりのアンチ的な意図としての表現だったのでしょうか? それとも、監督ご自身の死生観や哲学が反映されたものだったのでしょうか?
映画の中で子どもや犬が死ぬのはこの作品が初めてではなく、ヒッチコックの映画でも、映画の古典でも、子どもが死ぬ描写はあります。ただ、あなたがおっしゃっている意味は分かります。みんなから判で押したように、「なんで子どもと犬を殺したんだ」と言われましたから(笑)。でも、その「子どもと犬は守るべし」というセオリーは、どこか少し滑稽で、都市伝説のような根拠のないルールだと私は思っています。
現実の私の人生、そして私たちが生きる現実世界では、罪のない人々が毎日命を落としています。大人も、子どもも、犬も。なぜ映画の中でだけ、そこを特別視してタブーにしなければならないのか、私には分かりません。むしろ問題なのは、私たちがそうした過酷な現実から目を背け、映画では都合の良いルールの中に逃避していることの方です。その結果、私たちの社会はどんどん精神的に「幼稚化」してしまっている。昔よりも多くの恐怖や不安、焦燥感を抱えているのに、いざ本物の危機が起きた時には、立ち向かうための精神的な免疫を持てなくなっているのです。

──なぜこの質問をしたかというと、ストーリーの最初、父親と息子は「失踪した娘(姉)」を必死に探していますよね。でも、あの車が崖から落ちる衝撃的なシーンがあってからは、観客、少なくとも私の興味は「あの子どもと犬はどうなったのだろう? 無事なのか?」という点にすり替わってしまった。実際に、あのシークエンスの前後で、映画のトーンも大きく変化しました。これは監督が意図して仕掛けたプロットだったのか、それとも観客が自然と惹きつけられてしまった結果だったのか、どちらだったのでしょう?
私にとって、映画とはまさにそういうものです。映画の中で次々と疑問が湧き起こり、それを映画自体が少しずつ、時間をかけて回収していく。ただし、その答えは必ずしも理屈で語られる必要はありません。もっと感覚的・感覚器官的なアプローチで答えを提示していくものです。
そして、実際の「人生」も全く同じです。今日、私たちがハッピーなコメディの気分で目覚めたとしても、日中に何かが起きれば、夜には一転して悲劇のどん底で眠りにつくことだってある。激しく絶望したかと思えば、次の瞬間には誰かに恋をして、一気にロマンティックコメディの主人公になることだってある。人生における感情や状況なんて、一瞬でひっくり返るものです。それは私たちの日常で常に起きていることです。
だからこそ、私は「クライシスを生きよ」と言いたい。人間は、そうした危機に直面して初めて、自分の内面、内なる声と深く向き合うことができるのですから。この『シラート』という映画を通じて、観客の皆さんにも自分の内面を旅してほしいと願っています。

──作中における「地雷原」と「岩場」の対比も非常に興味深かったです。一見、なだらかで平和で安全そうに見える砂漠が実は危険であり、逆に険しくて危なそうに見える「岩場」の方が実は安全な場所として描かれている。この反転の構造が実に見事だと思いました。砂漠の中に地雷原があるというアイデアは、どこから生まれたのですか?
それは非常に面白い視点ですね。私はそこまで明確に意識していませんでしたが、そう言われてみると確かにその通りです。大変素晴らしい着眼点だと思います。
かつて私がモーリタニアへ旅をした時のことでした。西サハラからモーリタニアの国境を越える際、そこにはいわゆる「ノーマンズランド(無人地帯)」と呼ばれる、高度に軍事化された国境地帯が広がっていました。そこには本物の地雷原がありました。モロッコからアルジェリアへ入る国境もそうですが、世界で最も長く、最も厳重に閉ざされた軍事境界線の一つです。私のその時の体験がベースにあります。
ただ、映画におけるあの場所は、現実の地雷原であると同時に、観客の受け取り方によってはもっと「想像上の空間」であり、独自のルールを持った「神秘的な空間」のようにも感じられるように作っています。それは砂漠でありながら、単なる砂漠以上の何かです。ある観客にとっては、そこは「魂の空間」かもしれないし、「永遠の空間」、あるいは「地獄」や「戦場」そのものに見えるかもしれない。それは頭で理解するものではなく、身体の感覚で受け取るものです。
私はゲシュタルト療法(心理療法)を学んだことがあるのですが、心理療法の現場では、時としてLSDを用いたアプローチや、さまざまな実践が行われます。そこで目指されるのは、「理性的・論理的な知覚(思考)を一時的に停止させること」です。頭で考えるのをやめるからこそ、その先にある本質に繋がることができる。この映画も、観客の理性を一度ストップさせ、身体の記憶で感じてもらうための旅なのです。
──本日は素晴らしいお話をありがとうございました。
こちらこそ、深く映画を読み解いていただきありがとうございました。感謝します。

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『シラート』(原題:Sirāt)
監督:オリベル・ラシェ
製作総指揮:エステル・ガルシア
製作:ペドロ・アルモドバル
脚本:オリベル・ラシェ、サンティアゴ・フィジョル
撮影監督:マウロ・エルセ
編集:クリストバル・フェルナンデス
美術:ライア・アテカ
音楽:カンディング・レイ(デヴィッド・ルテリエ)
出演:セルジ・ロペス、ブルーノ・ヌニェス・アルホナ、ブルーノ・ヌニェス・アホナ ほか
2025年/スペイン・フランス合作/スペイン語・フランス語・英語・アラビア語/115分/ビスタ/カラー/5.1ch/日本語字幕:杉田洋子/PG12
日本公開:2026年6月5日(金)新宿ピカデリー、ヒューマントラスト有楽町、Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下ほかにてロードショー
配給:トランスフォーマー
後援:セルバンテス文化センター
公式サイト
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