Column

2026.09.03 18:00

【予習解説】『オデュッセイア』を観る前に知っておきたい知識の全て

  • Joshua Connolly

9月11日(金)、クリストファー・ノーラン監督の『オデュッセイア』が日本で公開される。米国公開から2カ月弱、この間に世界興収は15億ドルを超え、ノーラン作品の歴代最高記録をあっさり更新してしまった。おまけに英米ではホメロスの翻訳書の売上まで急増しているそうだ。3,000年前の詩人が2026年のベストセラー作家に返り咲いたというのは、なんとも愉快な話である。

さて、貴方は原作を読んだことがあるだろうか?

読んでから本作を観るのが良い。それはそうなのだが、原作「オデュッセイア」は岩波文庫で上下2巻、1万2,000行を超える韻文である。現代語訳されているとはいえ、3,000年前の口承詩の文体だ。慣れてしまえば癖になるのだが、慣れるまでに相応の体力が要るというのも事実だ。公開が目前に迫った今、忙しい現代の読者に通読を求めるのはなかなか根性が要る話だろう。

さて、そこで今回の記事の出番だ。原作のどこが要で、何を知っておくと映画が面白くなるのか、そして原作を読んで、あちこち寄り道しながら調べているうちに頭に残ったことを、コーヒー1杯分くらいの時間で貴方が追体験できるようにまとめておいた。そのため、あまりきれいに整理しすぎず、多少雑多なまま書いている。どこに引っかかるか、そこから何を掬い取るかは読む人次第だし、気になったところがあれば、そこからさらに調べてみるのもいいだろう。もちろん映画を観終えて原作そのものが気になったのなら、読んでみるのもまた一興だ。

3,000年前から語り継がれてきた物語の内容にネタバレも何もないような気はするが、原作の内容について語る以上、物語の展開を語ることになる。そのため、ネタバレを避けたい読者は鑑賞後に読むことをお勧めしたい。

ノーランが『オデュッセイア』を撮る意味

「オデュッセイア」は、トロイア戦争の英雄オデュッセウスが故郷イタケ島へ帰り着くまでの10年間の漂流譚だ。ただ、そうとだけ聞いて本を開いた読者はまず面食らうことになるだろう。オデュッセウスがなかなか出てこないのだ。

全24歌(現代の本でいう「章」に近いものだと思って欲しい)のうち、冒頭の4歌の主役は息子のテレマコスである。父の生死も分からぬまま20年。屋敷には母ペネロペに求婚する男たちが100人余りも居座り、他人の財産で毎晩宴会をやっている。思い余った息子は父の消息を求めて旅に出る。

そして第5歌でようやく父オデュッセウスが現れる。どこにいたかというと、女神カリュプソの島に7年間引き留められて、浜辺で泣いていたようだ。トロイアの英雄が故郷を思い海辺で泣く、疲れ切った漂流者として登場するというのは、前作で大活躍した主人公が2作目の冒頭では見る影もなく落ちぶれているという、ある意味ヒーロー映画の続編でよくある型だ。実際「オデュッセイア」は、トロイア戦争を歌った「イリアス」のいわば続編に当たる詩だから、この見立てはそんなに間違ったものではないはずだ。

そして映像化した際に最も迫力が出そうな怪物との遭遇や海上の冒険といった「見せ場」部分は、第9歌から第12歌において、オデュッセウスが漂着先の宴席で「私はこんな目に遭ってきたんだ」と自ら語る回想の中で語られる。そう、面白いことに、額の中央に大きな目がひとつだけある巨人キュクロプス族のポリュペモスも、美しい歌声で船乗りを惑わす海の怪物セイレーンも、渦潮の怪物カリュブディスも、すべてあくまで本人の語り、つまり「こんなことがあったんだ」というさながら飲み会で武勇伝を語る中年上司の談として登場するのが「オデュッセイア」の大きな特徴の一つである。

第13歌から最後までの12の歌、実に全体の半分は、帰り着いたイタケ島での話に費やされる。乞食に変装して自分の屋敷に潜入し、20年ぶりに会う妻に正体を明かさぬまま対面し、機を窺って求婚者たちへ反撃するという屋内の潜伏劇である。

「オデュッセイア」の物語における「現在」はおよそ40日間しかない。トロイア戦争10年と漂流10年の計20年の大部分は、あくまで回想と又聞きで語られるに尽きる。物語はあくまで全体の時系列の途中から始まり、過去は入れ子めいた語りで埋められていく。ローマの詩人ホラティウスは、この構成をホメロスが聞き手をin medias res、すなわち「物語のただ中へ」連れ込むと評した。物語論の教科書に必ず載っているこの用語は、もともとホメロスを褒めるための言葉なのだ。

時系列を入れ替え、回想や予期的な叙述法で語り、語り手の記憶を疑わせる。そう、『メメント』から『オッペンハイマー』に至るまで、それはノーランが30年やってきたことそのものである。要するに今回のノーランは、奇を衒って時間をいじったわけではない。「オデュッセイア」の映像化というのは、ノーランの作家性と非常に親和性の高い題材だったのである。

ところで、トロイア戦争に用いられたトロイの木馬だが、あれは前作「イリアス」には出てこない。「イリアス」はギリシャ軍最強の戦士アキレウスの怒りに始まり、トロイア側の総大将ヘクトルの葬儀で終わる詩で、トロイア陥落の前に幕を閉じるからだ。木馬の計略が語られるのは「オデュッセイア」の第4歌と第8歌、例に漏れずこれもまた登場人物の回想と吟遊詩人の歌として、ほんの数十行触れられる程度である。

では作戦の顛末はどこでまとまって読めるのかというと、これが意外に遅く、ホメロスからおよそ700年経った紀元前1世紀のローマにおいてであり、ウェルギリウスが建国神話を歌った叙事詩「アエネイス」、その第2巻が事実上の出典である [1]。伏線の回収までに700年、しかも回収したのは作者とは赤の他人の、言葉も国も違う後輩詩人だ。「HUNTER×HUNTER」の度重なる休載に文句を言っているファンが、なんだか可愛く見えてくる時間感覚だろう。

ギリシャ軍は木馬の腹に精鋭を潜ませて浜に置き去り、艦隊ごと沖の島陰に隠れて撤退を装う。浜にはシノンという男が1人、囮として残る。わざと捕虜になった彼はトロイア側にこう泣きつくのだ。自分は仲間の陰謀で生贄にされかけて逃げてきた、あの木馬は女神アテナへの捧げ物で、城内に納めれば都は不落となる、だからギリシャ軍は城門を通れない大きさにわざと作ったのだ、と。トロイア人はこの投降者の作り話を信じ、城壁を自ら壊してまで木馬を曳き入れてしまう。その夜に何が起きたかは、ご存知の通りである。

しかもその「アエネイス」にしてからが、陥落の夜を、生き残ったトロイアの武将アエネアスが宴席で語る回想として書いている。木馬とはつまり3,000年間、誰かの語りの中にしか現れてこなかった装置なのだ [2]。ちなみに映画のキャスト表には、エリオット・ペイジ演じるシノンという役名がある。ホメロスが一度も名前を呼ばなかった、出典が実質「アエネイス」のあの囮男である。この名前が載っているということは、ノーランが「オデュッセイア」の外側からも素材を汲んでいるということだ。本作の看板は確かに『オデュッセイア』だが、その原作は正確には1冊の本ではない。ホメロスからウェルギリウスまで、何百年もかけて書き継がれてきた伝承の総体なのだ。

『オデュッセイア』と神々

「イリアス」はアキレウスの怒りに始まると書いたが、「イリアス」の主役アキレウスは、一騎で戦局を変える人間離れした武力の持ち主で、「イリアス」はいわば「力の物語」である。ところがその力をもってしてもトロイアは落ちなかった。アキレウス自身、陥落を見ることなく戦場に倒れている。10年の戦争を終わらせたのは、先述の木馬の謀略だ。だからその発案者を主役に据えた続編「オデュッセイア」は、力の物語ではなく知恵の物語として語られる。実際、この詩で武力自体が問題を解決する場面はほとんどない [3]。例えばキュクロプスの洞窟である。寝ている巨人を剣で刺せば済む話に見えるが、洞窟の入口は巨人にしか動かせない大岩で塞がれている。巨人を殺せば全員が中で餓死する。だから殺さずに目だけを潰し、巨人が岩をどけた隙に、羊の腹にしがみついて脱出する。腕力の代わりに、状況を読み切り、段取りで勝つ。これがオデュッセウスの戦い方であり、「オデュッセイア」の基本文法である。

そしてこの知恵は、しばしば神々の起こす理不尽への対処に向けられる。「オデュッセイア」を適当に数ページ拾って読むだけでもわかると思うが、「オデュッセイア」にはこれでもかというくらい神々がたくさん登場する。神々は天上の会議で人間の処遇を議論し、人間に変装して地上を歩き、気が向けば嵐も奇跡も起こし、人間と口論を起こしたりもする。

「オデュッセイア」の冒頭、ゼウスは会議の席でこうぼやいてみせる。「人間ときたら、何かというと苦しみを神のせいにする。だが連中は自分の無分別で、定め以上の災いを招いているのだ」と。もっともらしい説教だが、では当の神々が何をしているかというと、これがなかなかだ。ポセイドンは、息子のキュクロプスが目を潰された恨みで、10年にわたってオデュッセウスの帰還を妨げ、ついには再び嵐を起こす。息子が客人を食う人食いだったことは、どうやら勘定に入っていない。オデュッセウスの部下たちは、飢えの果てに太陽神の牛に手を出した罰で、雷の一撃を受けて全員海に沈んだ。このとき太陽神ヘリオスがゼウスに突きつけた要求がこんなものだ。償いがもらえないなら、俺は冥府に下って死者どもを照らしてやる、と。ストライキ的脅しである。

そのくせ神々は、気に入った人間にはとことん甘い。アテナはオデュッセウスの最大の贔屓筋で、宿敵ポセイドンがエチオピアへ出かけた留守を狙って神々の会議にオデュッセウス釈放の話を通し、地上では老人や少女に化けて道案内をし、ここぞという場面では彼の姿を美しく輝かせて印象操作までしてくれる。知恵の女神だけあって、知略の男がよほどお気に入りらしい。要するにホメロスの神々は、公平公正な傍観者などではない。不死で、強大で、そして驚くほど人間くさい。贔屓をし、根に持ち、面子に拘る。映画の日本版キャッチコピーは「神に抗え。」だが、抗う相手の実態はこういう連中である。公表されている配役のうち、オリュンポスの神として前面に出ているのはゼンデイヤ演じるアテナである。原作に頻出するゼウスやポセイドンを、ノーランが人格を持った登場人物として描くのか、それとも神々の介入を嵐などの自然現象や出来事の巡り合わせ、登場人物の心理の動きとして表現するのか、この辺りは、神話を現代映画に移す際の大きな見どころになるだろう。

ちなみに映画で繰り返し「ゼウスの掟」と呼ばれるものが登場するが、これは「オデュッセイア」の原典でその名で記された掟ではなく、ノーランが、古代ギリシャで「クセニア」と呼ばれた客人歓待の慣習を核に、現代の観客にも追いやすい一本の道徳律として言語化したものだ。見知らぬ旅人が戸口に立てば、まず迎え入れて食事と休息を与え、名や素性を尋ねるのはその後。一方の客人も、歓待につけ込んで主人の家を食い潰してはならない。この相互の義務を見守るゼウスには、ゼウス・クセニオス、すなわち「客人の守護者」という添え名があり、『オデュッセイア』にも、客人や物乞いはゼウスの庇護下にあるという考えが繰り返し登場する。だから巨人ポリュペモスが客人を食い、求婚者たちが客人の身で屋敷を食い潰すのは、単なる無作法ではない。同じ客人歓待の秩序を、文字通りと比喩の両方で踏みにじる、神への不敬なのである。

考古学から解剖する「オデュッセイア」

ところで、「オデュッセイア」はいつの話なのだろうか?少し考古学に寄り道してみよう。

古代の学者エラトステネスは、トロイア陥落を紀元前1184〜83年と算出した。一方、「オデュッセイア」が今の形にまとまったのは紀元前8世紀後半あたりというのが標準的な理解である。つまり「オデュッセイア」を歌う詩人は、およそ400年前の戦争のことを歌っていることになる。400年、つまり今の私たちが、文字記録を一切使わずに、大坂の陣を口伝えだけで歌い継いでいるようなものである。

トロイア戦争の舞台とされる紀元前12世紀、ギリシャ本土にはミュケーナイ文明という宮殿文明が栄え、線文字Bという文字まで持っていた。ところが前1200年頃、東地中海一帯の文明が連鎖的に崩壊する。考古学では後期青銅器時代の崩壊と呼ばれる大事件で、原因は侵略、地震、干魃、交易網の寸断など諸説入り乱れている。宮殿は焼け、文字は忘れられ、ギリシャは数百年の無文字時代に入った。ホメロスの詩は、この断絶の向こう側の記憶を口伝えだけで運んできたことになっている。

ならばその記録はどこまで本物なのか?これが面白いところで、「詩の中」に“400年前の遺物”が埋まっていることが確認されている。どういうことかというと、有名な例が猪牙兜だ。「イリアス」第10歌に、イノシシの牙を互い違いに縫い付けた革兜が妙に克明に描写されるのだが、この様式の兜はまさにミュケーナイ期の遺物として実際に出土している。詩人の時代にはとうに作られなくなっていた武具が、口承の定型句の中に化石のようにして保存されていたわけだ。

その一方で、詩人は英雄たちを平気で火葬にしたりする。というのも発掘されるミュケーナイの墓を見る限り、ミュケーナイ文明では土葬が主流であり、あくまで火葬は詩人自身の時代の慣習である。それだけでなく、時代の異なる青銅の武具と鉄の道具も混ざって登場したりと、要するにこれらの叙事詩は、ミュケーナイの記憶と、数百年の口承によるアレンジと、語り継ぐ詩人自身の時代の風俗が重なり合ったある種の“地層”を構成しているのである。

ゆえに、作品世界全体を単一の年代に完全一致させる「正解の時代考証」は、原理的に成立しにくいのだ。ノーラン版の武具や甲冑にも一部の歴史ファンから考証ツッコミが入っているようだが、そもそも原作自体が、どの単一の時代とも一致しない代物であることは言及しておきたい。衣装デザイナーのエレン・マイロニックは「私たちは時代を設計しているのではなく、神話を作っている」と述べている。

では、トロイアそのものは実在したのだろうか?19世紀にシュリーマンが掘り当てたトルコのヒッサリク遺跡は、現在ではほぼ異論なくトロイアと同定されている。この時代の地層を見てみると、実際に青銅の鏃や投石が包囲戦を思わせる散らばり方で見つかっている。さらにヒッタイト帝国の粘土板文書には「ウィルサ」という都市名が現れる。ギリシャ語でいうトロイアの別名、イリオスである。しかもウィルサの王として条約に記録された名はアラクサンドゥ。トロイア王子パリスの別名アレクサンドロスと、不気味なほど似ている。前13世紀のこの地で何度か戦乱があったこと自体は、文書と地層の両方から裏が取れつつある。それがホメロスの歌う戦争そのものだったのかは、まだ誰にも言えないが。

しかしながら、オデュッセウスの故郷イタケには昔から難癖がついている。「オデュッセイア」の中での地理描写が、現在のイタケ島の地形とあまり合わないのだ。挙げ句、隣のケファロニア島の半島こそ古代のイタケだったという説まで挙げられ、地質学者を巻き込んだ検証は現在も続いている。

ところが当のイタケ島から、つい最近ちょっとした物証が出たことはご存知だろうか。1990年代以降に発掘された遺物の再調査から、「ΟΔΥΣΣΕΩΣ(オデュッセウスの)」と刻まれた瓦が出土し、丘の上の古代遺構がオデュッセウス崇拝の祠堂だったと同定する研究成果が発表されたのだ。英雄オデュッセウスの実在そのものが証明されたわけではないが、古代ギリシャ人たちがこの島を英雄の島として千年以上も祀り続けていたことは、物証で裏付けられたというわけだ。物語が土地に根を張るには十分な年月である。

天文学と「オデュッセイア」

詩の中には、科学の目で覗き込むと妙に解像度の高い一節が紛れ込んでいる。せっかくなので、私の専門に近いところから2つ紹介したい。

1つ目は星の話だ。第5歌、カリュプソの島を筏で脱出したオデュッセウスは、女神に教わった航法で海を渡る。大熊座を左手に保って進め、というものだ。北の星座を左に保てば、船首は東を向く計算である。だが考えてみてほしい。北の目印なら、現代人はまず北極星を探すはずだ。ところが詩人は北極星を使わず、大熊座に、ただひとつオケアノス(世界を取り巻く大河)の流れに浸らない星座、つまり一晩中沈まない星座という注釈を付けて、これを目印に立てている。

実はこれが、あの時代の空では唯一の正解なのだ。地球の自転軸は約26,000年周期でコマのように首を振っていて(歳差運動)、天の北極は時代とともにずれていく。紀元前8世紀の空には、これと決まった北極星がまだ存在しなかった。だから沈まない大熊座そのものが、北の目印だったのである。つまりあの航法の描写は、当時の空でこそ正しい。猪牙兜が定型句の中に化石として残っていた話を先にしたが、詩の一節に、当時の星空がうっすら保存されているように感じることができるのも、「オデュッセイア」を読む魅力の一つだ。

2つ目は日食だ。第20歌、求婚者たちの宴の席で、預言者が不吉な幻視を口走る。太陽は天から消え失せ、禍々しい霧が世を覆う、と。古代の人々はこれを日食の描写と読んだ。そして2008年、2人の科学者が「米国科学アカデミー紀要」に出した論文によると、詩の記述から月齢や金星の位置など5つの天文学的手がかりを拾い出すと、それらすべてが紀元前1178年4月16日という単一の日付に収束する、偶然でこうなる確率は100万分の1以下だ、というのである。この日、イオニア海では実際に皆既日食が起きていた。伝承上のトロイア陥落年代から数えて、ちょうど10年の漂流を終えた英雄が帰り着くべき頃合いの日食である。つまり求婚者たちに報いが下ったあの日の日付が、天文計算で特定できてしまったという主張だ。

複雑な男と、待つ女たち

「オデュッセイア」の第1歌の冒頭、ホメロスはムーサ(詩の女神)に、あの男のことを語ってくださいと歌い出しを頼む。その「男」に付く形容詞が「ポリュトロポス」である。直訳すれば「多方向の」、すなわち多くの道を行く者、あるいは、多くの策を弄する者。絶妙な含みのあるこの形容詞を、翻訳者たちは何百年も持て余してきた。“the man of many ways”と訳した者もいれば、“the man of twists and turns”と語呂で寄せた者もいる。2017年、エミリー・ウィルソンは思い切ってこう訳した。「Tell me about a complicated man(複雑な男の話をしてください)」。ノーランが脚本作りで参照したと報じられている訳のひとつが、このウィルソン訳である。

実際、オデュッセウスは「複雑」という一語では収まらない男である。キュクロプス族の巨人ポリュペモスに名を聞かれた彼は、ウーティス──「誰でもない」と名乗った。やがて目を潰された巨人が仲間に「誰でもないが俺を殺そうとしている」と訴えても、仲間たちは取り合わない。腕力ではなく、言葉によって相手を封じたのである。ところが、ここで黙って逃げれば完勝だったものを、オデュッセウスは沖へ出た船から本名を叫んでしまう。自分を倒したのが誰なのか、敵にも後世にも知らせずにはいられなかったのだ。その名を聞いたポリュペモスは、父ポセイドンに彼の帰還を妨げるよう祈る。「誰でもない者」になることで生き延びた男が、「オデュッセウスである」と誇示したために、その後の苦難を自ら招く。知恵と虚栄、自己抹消と名声への執着が、同じ男の中に同居している。

なお、原文にはさらに言葉遊びがある。「誰も~ない」に当たるメー・ティスという音が、「知略」を意味するメーティスと響き合うのだ。名を消す策略そのものが、彼を「知略の人」として浮かび上がらせるのである。

ただし言っておくと、オデュッセウスは決して品行方正な英雄ではない。帰国後の彼は、会う人ごとに偽の身の上話を語る。羊飼いの少年に化けた女神アテナにまで初対面で嘘の経歴を披露し、女神は怒るどころか、お前と私は似た者同士だと面白がる始末である。この抜け目のなさをどう評価するかで、後世の作家たちは真っ二つに割れてきた。木馬の顛末をトロイア側の目で書いたウェルギリウスにとって彼は「酷薄なユリシーズ」であり、ダンテは偽計の罪で地獄の第8圏に落とした。かと思えばテニスンは、老いてなお未知へ漕ぎ出す探求者として讃えた。3,000年にわたって毀誉褒貶の絶えない男なのである。

ついでに言えば論争は2026年の今も現在進行形で、当のエミリー・ウィルソン本人が、ノーラン版の脚本に相当手厳しい批評を書いて話題になった。参照された翻訳者が参照した監督を斬る。どちらに理があるかは、貴方が観てから決めればいい話だ。この論争の中身は、ネタバレが解禁になる鑑賞後の記事でたっぷりやるつもりである。

さて、知略の男の家を20年守ったのは、知略の妻の存在だろう。ペネロペは求婚者たちに、舅の死装束を織り上げたら再婚相手を決めますと約束し、昼に織っては夜にほどくこと3年。決断を先送りする口実として利用した。侍女の密告で計略が露見してもなお、彼女は誰も選ばない。そして詩の終盤、20年ぶりに夫が帰ってきた場面の彼女が白眉である。感動の抱擁とはならない。目の前の男を見て、ペネロペは乳母に命じるのだ。寝室の寝台を外へ運び出しておやり、と。あの寝台は、根を張ったオリーブの生木から夫が自ら削り出した、動かせない寝台である。それを知っているのは夫婦2人だけ。動かせるはずのないものを動かせと命じて、男の反応を見た。ホメロスは第6歌でオデュッセウスに、夫と妻が心をひとつにして家を治めること以上に強く善いものはない、という祝福の言葉を語らせている。ホモフロシュネ(心の一致)と呼ばれるこの理想こそ、怪物だらけの長い詩がまっすぐ目指している終着点だ。

ところで、「オデュッセイア」には、トロイア戦争後の「帰還」が夫婦にもたらす三つの結末が描かれている。一組目はヘレネとメネラオス。その離別が戦争の発端となった二人は、戦後ふたたびスパルタへ戻り、第4歌では一見何事もなかったかのような豪奢な暮らしを送っている。もっとも、トロイアでの記憶を語る会話の端々は相当に気まずいものだったが。二組目はクリュタイムネストラとアガメムノン。ギリシャ軍の総大将アガメムノンは、戦場を生き延びて故国へ帰り着くも、妻とその情夫の陰謀によって殺される。この顛末は詩の中で繰り返し繰り返し語られ、オデュッセウスへの警告として機能する。帰還は成功とは限らない、帰り着いた日に死ぬ英雄もいる、と。そして三組目が、ペネロペとオデュッセウスである。夫とともに故郷へ戻ったヘレネ、帰還した夫を死に追いやったクリュタイムネストラ、20年にわたって夫の帰りを待ち続けたペネロペ。三人は、戦争の後に夫婦がたどりうる三つの結末を映す、三面鏡のような存在だ。そしてノーラン版では、ヘレネとクリュタイムネストラをルピタ・ニョンゴが一人二役で演じている。二人を同じ俳優に託した以上、その共通点と違いは否応なく意識されることになる。ペネロペを含めた三人の関係を、映画がどう組み立てるのか注目したいところだ。

おわりに

本作の音楽を担当したルドウィグ・ゴランソンは、オーケストラを使わないという方針を選んだ、ということも知っておくといいだろう。本人の説明が明快である。「当時オーケストラは存在しなかったのだから」。代わりに鳴るのは、リラ(竪琴)、アウロス(古代ギリシャの二本管のダブルリード楽器、ゴランソン曰く「1000年間、最も人気のロックスター楽器だった」)、そして大小35個の青銅ゴング。シンセサイザーやジェイムス・ブレイクの声も重ねているので純古代仕様ではないのだが、方向性は明確である。

ところでこれは、期せずして原作の正しい再生環境でもあると言っておこう。「オデュッセイア」は黙読される文学として生まれたのではない。アオイドスと呼ばれる吟遊詩人が、宴席でリラを爪弾きながら歌う音楽だった。詩の中にも吟遊詩人が2人登場して、宴会で英雄譚を歌ってみせる。劇場に竪琴と管の音が響くのは、考証というより先祖返りといったところだろう。

原作を日本語で読むなら選択肢は豊富だ。いちばん手に入りやすいのは松平千秋訳(岩波文庫・上下巻)で、迷ったらまずこれだろう。そして、2022年に出た中務哲郎訳(京都大学学術出版会)は最新の研究を踏まえた訳注が充実していて、原典の言葉遊びや異説まで踏み込みたい人向けである。年季の入った岩波文庫の呉茂一訳もあるし、1943年初訳の土井晩翠訳「オヂュッセーア」が今年6月に新装版で復刊しているあたり、書店の棚も臨戦態勢となってきた。原作はちょっと重すぎる、という方には松村一男・沖田瑞穂「『オデュッセイア』入門」(河出新書)という手頃な入門書もある。

全部読む時間はない?ならば第9歌だけでもいい。木馬の英雄が海で何もかも失っていく転落の始まり、キュクロプスとの知恵比べ、そして「誰でもない」の名乗り。この詩のエッセンスが600行足らずに詰まっている。もちろん、まっさらのまま観て、帰り道に書店へ寄るのも正しい楽しみ方である。先述したが、米国ではまさにそれが起きていて、公開後にホメロス翻訳の売上が跳ね上がったらしい。残念ながら、3,000年前の詩人に印税は入らないが。

映画は9月11日(金)全国公開、上映時間172分。それに先立って9月4日(金)からの1週間、IMAXでの先行上映がある。日本では全年齢対象のG区分として案内されているが、米国ではR指定(暴力描写)を受けた作品なので、お子さん連れの方はそこだけ頭の隅に置いておいて欲しい。なお日本語字幕には、古代ギリシャ研究家の藤村シシン氏が監修に入っている。神話用語の精度は心配しなくてよさそうだ。

で、どの劇場のどのスクリーンで観るのか。全編IMAXフィルムカメラで撮影された本作にとって実はこれが一大問題なのだが、これは次の記事で改めて。それまでにできる準備は本稿で書いた通りである。3,000年間語り継がれてきた客人が、もうすぐ日本の劇場の戸口に立つ。迎える作法は、もう貴方もご存知のはずだ。

注釈
[1] 簡単のために「アエネイス」第2巻が事実上の出典だと書いたが、これは現存する作品のうち、シノンの偽証から落城までを最も詳しく連続して読めるのが「アエネイス」第2巻という意味であり、木馬の詳しい物語をウェルギリウスが初めて書いたという訳ではない。というのも古代ギリシャには「小イリアス」「イリオスの陥落」など、いわゆる叙事詩環の作品があり、木馬の製作、城内への搬入、トロイア陥落をすでに語っていた。ただし作品本文の大部分が失われたため、現在まとまって読めないだけである。

[2] 理解のために単純化を行ったが、やや誇張である。[1]で言及した失われた叙事詩などがあるため、「少なくとも『オデュッセイア』と『アエネイス』という二大現存叙事詩では、木馬はいずれも現在進行の出来事ではなく、作中歌や回想として現れる」と言う方が正確だろう。

[3] もちろん「オデュッセイア」の終盤には凄惨な戦闘がある。しかし少なくとも「オデュッセイア」で描かれる漂流譚において、オデュッセウスを生き延びさせるのは正面からの腕力ではなく、相手の性質と状況を読み切る知略である。

==

『オデュッセイア』(原題:The Odyssey)

監督・脚本:クリストファー・ノーラン
製作:エマ・トーマス、クリストファー・ノーラン
エグゼクティブプロデューサー:トーマス・ヘイスリップ
出演:マット・デイモン、トム・ホランド、アン・ハサウェイ、ロバート・パティンソン、ルピタ・ニョンゴ、ゼンデイヤ、シャーリーズ・セロン
全米公開日:7月17日(金)

日本公開:2026年9月11日(金)日本公開
配給:ビターズ・エンド ユニバーサル映画
公式サイト
© 2026 UNIVERSAL STUDIOS
photo by Melinda Sue Gordon © Universal Studios. All Rights Reserved.