Column

2025.01.31 9:00

【単独インタビュー】『Brotherブラザー 富都のふたり』ジン・オング監督が描く理不尽な社会と現代における“家族”

  • Atsuko Tatsuta

第97回アカデミー賞国際長編映画賞のマレーシア代表に選出された『Brotherブラザー 富都のふたり』が1月31日(金)より日本公開されます。

マレーシアの首都クアラルンプールの富都(プドゥ)地区にあるスラム街では、様々な国籍・背景を持つ貧困層の人々が多く暮らしている。不法滞在者2世のアバンとアディは、ID(身分証明書)もなく、この地区で兄弟として成長してきた。耳の不自由な兄アバンは市場の日雇いで堅実に生計を立てる一方、弟アディは簡単に現金が手に入る裏社会と繋がり、その行動は常に危険を孕んでいる。そんなある日、アディの実父の所在が判明し、ID発行の可能性が出てくるが、ある事件が二人の未来に重く暗い影をもたらす──。

兄アバン役に台湾のスター俳優ウー・カンレン、無鉄砲な弟アディ役にマレーシアの人気俳優ジャック・タンを迎えた本作は、イタリアのウディネ・ファーイースト映画祭でマレーシア映画として初の最高賞含む3部門を受賞。台湾のアカデミー賞(金馬奨)ではウー・カーレンが主演男優賞を獲得という快挙を達成。マレーシアと台湾で動員100万人を記録する大ヒットを記録し、ハリウッドでも活躍するアカデミー賞監督のアン・リーは、ウー・カンレンを「彼のような俳優が台湾にいることは私たちの誇り」と称賛しました。

脚本と監督を手掛けたのは、『分貝人生 Shuttle Life』(17年)や『ミス・アンディ』(20年)などで社会派作品のプロデューサーとして国際的な評価を得てきたジン・オング。初監督作品で映画監督としても素晴らしいスタートを切りました。

待望の日本公開に際し来日したジン・オング監督が、Fan‘s Voiceのロングインタビューに応じてくれました。

──パワフルかつエモーショナルな作品で、移民も多いマレーシアの複雑な人間模様も大変興味深かったです。
そうですね。マレーシアは多民族国家で、マレー人が65%、中華系が25%、インド系が10%、その他が5%といった割合ですが、今日では産業構造的に、海外からの労働力なくしては回らない。それ故に、この映画で描かれているようなIDの問題や出稼ぎ労働者の境遇が、常に社会問題として横たわっています。マレーシア映画を撮る上で、インスパイアのもととなることも多いですね。

──一説によると、マレーシアでは約30万人の方が、この作品の主人公である兄弟のようにIDがない状態だとお聞きしました。
実はその30万人という数字も正確ではなく、もっと多いと言われています。政府でも実態は掴みきれていない。不法滞在していると自ら言う人はいませんからね。

──マレーシアは急速に経済発展しているという印象がありますが、一方で、本作の主な舞台となっているスラム街も存在する。そういった二極化が起こっているのでしょうか?
大都市における貧富の差は著しいですが、これはマレーシアに限ったものではないかもしれません。経済的格差に関してマレーシア政府が毎年発表しているデータがあり、貧困層に向けた国の補助金制度のようなものもありますが、それはあくまでもIDを持っている人に適用されるものであり、IDを持たない人は、その救済すら受けられないのが悲しい現実です。

──この物語の舞台になっている富都(プドゥ)はスラム地区と伺っていますが、実際にクアラルンプールで、あるいはマレーシアにおいて、どういう位置づけにのエリアなのでしょうか?なぜこの地域を舞台に選んだのでしょうか?
富都は、その全体がスラム街なわけではありません。最初は中華系の人々が開拓し、市場を中心に発展を遂げてきました。その後、ある程度稼いで富を得た中華系の人々はそこを離れ、出稼ぎ労働者やIDがない貧困層の人たち、身寄りのない高齢者、トランスジェンダーといった人々が集まるようになりました。しかしながら、例えば東京なら渋谷のような、クアラルンプールの中心部にあるエリアなので、周囲を高層ビルが取り囲んでいたりもします。そのコントラストも興味深く、このエリアを舞台に設定しました。

──富都という舞台を先に決めたのですか?それとも二人の兄弟の物語が先にあったのでしょうか?
物語が先にありましたが、富都で撮ることはほぼ同時に考えました。プロデューサーとして携わった作品で、富都で撮影したことがあったので、この街に対する知識と理解があったからです。

──漢字で表す「富都」は“豊かな街”を意味しますが、これは偶然なのでしょうか?それともシニカルな意味があるのでしょうか?
富都は“プドゥ”という音に対して当てた漢字です。ただ、私的にはこの作品を撮る上で、そういったコントラストを重要視していました。富める都市で起こる貧困層の物語。ある種の皮肉だと私自身も思います。

──脚本もご自身でお書きになっていますが、兄弟のモデルとなった人はいたのですか?
モデルとなるような人がいたわけではなく、私自身が想像で書いたオリジナルのな物語がまずありました。その裏付けをするために、リサーチをしました。リサーチをしていく上で、現実の厳しさをさらに知り、調整しました。この物語を撮る上で、リアリティがあるかはとても重要な部分ですから。現実の世界で実際に起こっていることを描きたいという気持ちは常にありました。

──弟のアディを演じているのはマレーシアのスターのジャック・タン、兄のアバン役は台湾の人気俳優のウー・カンレンですね。台湾の俳優をキャスティングした理由は何でしょうか?
最初、脚本の設定では兄役にマレーシアの俳優を探していました。でも、フィールドリサーチを進める中で、こういった人たちの声は全く外界に届かない、誰にも話を聞いてもらえないということを知りました。そこで、そうしたコミュニティを象徴するアバンがろう者であることで、彼らの置かれている現状を映像の中でより明確に表現できるのではないかと思い、役柄の設定を変えました。マレーシアで暮らしている人であるように見えればマレー人である必要もなくなり、範囲を広げて探している中で、縁がありウー・カンレンに決まりました。

──オーディションではなく、誰かの紹介だったのですか?
オーディションは行いませんでした。2020年に(台湾の)金馬奨主催のピッチプログラムに参加したときに、カンレンさんの友人のプロデューサーがいて、この脚本を気に入り、そこからカンレンさんに脚本が渡り、出演することになりました。

──ウー・カンレンさんがアバン役に相応しいと思った理由は?
カンレンさんとはお電話をいただき、1カ月後に直接会いました。マネージャーを付けずに自ら交渉の場に出て来られたのですが、そんなアーティストとは会ったことがありませんでした。自己紹介から始まっていろいろお話ししていく中で、この脚本を大変気に入って、兄役を是非やらせて欲しいとおっしゃってくださいました。兄役を演じられるのであれば、スケジュール面を始めすべて調整したい、と。かなり好意的でした。けれど、お会いした時点ではまだ最終的な脚本が完成しておらず、実際に撮影に入る2022年までの2年間、時々連絡を取っていました。その間も、カンレンさんのこの作品に対する意欲や誠意を感じました。もちろん、キャリアのある俳優であるカンレンさんの演技力については、心配する要素が微塵もありませんでした。

──ウー・カンレンさんを兄役に決めてから、脚本の上で変更点等はあったのですか?
大きくは変更していません。が、ウー・カンレンさんがマレーシア入りした後、セリフに関しては変更したり、撮影現場での調整はたくさんありました。自分の運命について語る最後の長回しのシーンに彼はこだわりがあり、確固たる意見も持っていました。セリフは3行しかなかったのですが、いろいろと試行錯誤して、本当はもっと喋りたいことはあるはずだということで、最終的には今の形になりました。

──『ブラザー』という邦題の通り兄弟の話でもありますが、二人に母親のように愛情を注いで世話をしてくれるマニーというトランスジェンダー女性を含めれば、疑似家族のストーリーでもあると思います。血の繋がりはない人々が寄り添い、疑似家族のように助け合いながら、厳しい現実を生き延びるストーリーは、ある意味、今日の映画界でのトレンドの一つといえるかもしれません。疑似家族という主題を入れた理由は?
この映画に登場する主人公の兄弟を始めトランスジェンダーのマニー、ベトナムからの難民など、皆にIDの問題があります。彼らは疑似家族のように生きていますが、私が富都の街で彼らと同じように互い助け合いながら生きている人々に実際に会ったことも、これを主題した理由のひとつです。

もっとも、アイデンティの問題に関していえば、マレーシアに住む人々だけでなく、全ての人が、自分はいったい何者なのかということと生涯対峙し続けなければなりません。私は、IDを持たず、つまり何も持たざる人たちでも、心の中にある愛は奪えないのだということを描きたいと思いました。その愛は湧き出るもので、自分を犠牲にしてまで与えることができる。何も持っていなくても、愛という(他人に)与えるものがあることが尊いのです。

また、この作品を撮る前からずっと自問自答していたテーマの一つが、人は何をもってそこをホームタウン、あるいは拠り所と呼ぶのかという問いです。この作品の登場人物たちは社会に理解されず、見放され、つまり社会の一員になれなかった人たちです。自分の生まれた国でもあるにもかかわらず。そうした者同士が集まり、疑似家族になっていきます。従来の家族では、お父さん役やお母さん役といった社会的役割が割当られ、その役割を果たそうと努力をすると思いますが、では、そうした役割が与えられてない中で家族になるには、どういう可能性があるのかを模索したかった。

──これはネタバレになりますが、映画の途中まで、弟のアディがソーシャルワーカーのジアエン(セレーン・リム)を殺したのではないかとミスリードしているようにも見えます。つまり、兄のアバンは弟の身代わりになったのではなく、自分の犯した罪によって最後は処罰される。善良な兄が罪を犯すというアイディアはどこから来たのでしょうか?
中国には、善因善果、つまり“善い行いをすれば良い報いが返ってくる”という諺があります。けれど、現実社会を生きていると、優しい人ほど辛い状況に陥ることは往々にあると思います。私は脚本を書く中で、誰が誰を殺したかということを明確にしたいわけではないとは思っていました。制度が人を殺した、と。実際、兄は誤って人を殺めてしまった。ウー・カンレンは演技がすべて終わった後、“まるで長い夢を見ているようだった”と言っていました。「誰がどう殺したのか。それは、夢のままでいいのではないか」と。私から言えることは、過酷な運命を背負った人を神は助けなかった、ということです。

私は残酷なのかもしれません。でも、別の角度から見れば、兄アバンがこれ以上この現世で苦しまなくてもいいとも言えます。生き続けることは苦海を彷徨うことでもあります。アバンは生き延びようとせず、このタイミングで解脱する。残念な形でこの世を去るようには見えますが、ある意味、彼にとっては良い結末だったと言えるとも思います。

──しかしながら、アバンがあまりにもあっさりと死刑になったように見えました。これは現実のことなのでしょうか?
本来、マレーシアではアバンのようなケースには人権弁護士がつきます。が、アバンはそれを自ら放棄したという設定。つまり、自ら命を絶つことを選択するという彼の意思でもあります。

──この登場人物の中で理不尽な扱いを受けるのが、ソーシャルワーカーのジアエンです。彼女は本当に善意の人だったわけですが、大変理不尽な死に方をします。この悲劇を入れた理由は?
フィールドリサーチのときに、ある女性ソーシャルワーカーからお話を聞くことができました。「仕事をしてきた中で、一番印象深かったことは何ですか?」と尋ねると、彼女は「ある日、出稼ぎ労働者のところに話に行ったら怒らせてしまい、話がこじれ、急にその労働者が、ナイフを持って自分に向けてきた」と。その時に、「私はこの人のために一生懸命働いているのに、自分の命までなくしてしまうかもしれない」と危機を感じたそうです。

それを聞いて私が思ったのは、この危険というものは、全ての人に起こり得ることだということ。誰でも1秒後に命を落とすかもしれない。善い行いをしているからといって危険な目に遭わないことはない。日頃の行いとは関係なく、善人、悪人の関係なしに、危険は人を選ばず降りかかってくるもの。ジアエンのストーリーは、そのソーシャルワーカーの話からアイデアを得ていますが、これに関してはスタッフやチームと、たくさんディスカッションをしました。とある映画祭でも、「なんで良い人ばかり死なせるんだ。脚本を書く人は、ちょっと筆が曲がっちゃったんじゃないか」と聞かれました。その筆を曲がらせたのは私自身です、といつも自虐的に答えています。

──あなたはこれまでプロデューサーとして多くの作品を世に送り出してきましたが、これが初監督作品ですね。プロデューサーと監督業ではどのような違いがありましたか?
まったく違う経験でしたね。監督はプロデューサーよりも、クリエイティブ面でスタッフや俳優と分かち合うことが多いですから。監督は映画制作の全体を引っ張っていく上での一番のキーパーソンで、コミュニケーションの要であり、決定権もあります。プロデューサーと全く違う能力を求められると思いました。撮影期間中、多くのミーティングを持ちましたが、最も多く使った単語は「OK」と「NO」。つまり判断を伝える事が大事な仕事です。

──プロデューサー業と比べて、面白かったですか?
面白いですね!プロデューサーは、監督という他者のクリエイティビティをリスペクトする立場にあります。でも監督は制作の当事者になりますから、すべてにおいて決定していくことの大変さを実感しました。

──マレーシアで映画監督になるのは狭き門なのでしょうか? 
難しいですね。まず、映画のマーケットが他の国や地域とかなり異なります。私は、マレーシア人ですが、中華系のマレーシア人です。つまり私は基本的にマレー人向けの映画を作っていません。マレーシアで映画監督として成功するには、人口的なマジョリティであるマレー人に支持されるマレー映画を作ることが求められます。なので、市場が小さい中華系マレーシア人が映画監督になるのは、通常よりさらにハードルが高くなります。

──マレーシアはイスラム教徒が半数以上を占めるという理解ですが、映画を作るにあたって宗教はどれほど影響しているのでしょうか?
イスラム教徒、つまりほとんどのマレー人としては絶対に撮れないテーマがいくつかあります。例えば、セックスを主題とした作品、LGBTに関する映画、イスラム教を根本的から否定するようなものなど。よく3Rのタブーと言われます。Religion=宗教、Royal=王族、Race=人種の3つです。

──本作にはトランスジェンダー女性のキャラクターも登場しますが、問題はなかったのでしょうか?
マレー人がトランスジェンダー役を演じるのはNGです。マレーシアでは、イスラム教育が根本にあります。実際のところトランスジェンダーや同性愛者は多くいますが、けれども、表だってトランスジェンダーや同性愛者の物語を語ったりすることは許されません。中華系の俳優はトランスジェンダー役までは許されますが、例えばセックスシーンなどは許されません。実はこの映画を撮るにあたって、水面下で問い合わせをして、中華系の役者ならトランスジェンダーを演じられることも初めて知りました。藪蛇になると困るので、正面から問い合わせることは意図的にしませんでした。でも、実際に検閲に出したときは少し緊張しました。

──トランスジェンダー女性のマニー役を演じている俳優のタン・キムワンはどのようにキャスティングされたのですか?
タンさんは私の20年来の友人です。舞台俳優だったのですが、役者をやめてしまっていました。本作で初めての映画出演しました。普段は男性として生きています。

──彼にトランスジェンダー役をお願いした理由は?
雰囲気や人格的特徴がマニーに合うと思ったからです。後から聞いた話なのですが、二十数年前に初めて出演した舞台で、彼はトランスジェンダー役を演じたそうです。

──この作品では、トランスジェンダー女性以外は男性ばかりが登場します。最後にアディが会いに行くのも、母親ではなく父親です。ほぼ男性だけで構成したことに、何か理由があるのでしょうか?
よくぞ聞いてくれました。実は親しい友人にも「何で君は男ばかり撮っているのか。主役は全員男じゃないか」と言われます。その理由は、まず男性を撮るのが好き。男性の愛情表現や葛藤などの感情表現に関心があることが、ベースにあります。私のようにストレートに愛を伝えられる人もますが、男性には、自分の愛や感情をどう伝えたらいいかわからない人が多いと思います。そういったところを映画の中で見せていくことに面白さを感じています。

──母親不在というところに関してはどうでしょうか?
背景設定が大きいですね。そもそもマレーシアにおけるIDのない人の多くは、母親が外国からの出稼ぎ労働者であるケースが多い。アバンは両親ともに亡くなっているという設定です。アディの場合は、父親が外国人である母と息子(アディ)を見捨てた。母はビザが更新できず、タイに強制送還され、アディだけマレーシアに残ったという設定です。そうした設定が、母親不在に繋がっています。ただ、生物学的な母親は不在ですが、兄のアバンやマニーには母性が溢れている。それはとても合理的なパラドックスだと思います。

──隣国のタイとはそうした人の行き来があるにも関わらず、文化や宗教が違うせいか、映画業界はマレーシアとはまったく違う様相があるように思います。
地理的に近いですが、マレーシアとタイの映画人の交流は残念ながらさほどありません。タイ映画のテーマ性や創作のアイデアは、マレーシアと比べると相当寛容です。ただ、マレーシアにタイ映画は入ってきます。マレーシア人は、タイの映画のラブストーリーだったりホラーだったり、そういう映画を好んで観ます。面白いことにタイのみならず、香港や台湾などのヒット作の影響を受けているのが、今のマレーシアです。しかし、マレーシア映画がタイの映画界や人々に影響を与えているかというと、ほとんどないと感じます。

もちろん、タイ以外の外国からも、やっぱり大衆受けする娯楽映画が多く入ってきています。人気順でいえば、わかりやすいアクション、ホラー、ラブストーリー、そういった順番でしょうか。ヨーロッパ映画はかなり少ないです。

──タイ映画といえば、ホラーやBL作品も人気です。本作は兄弟愛の話でもありますが、男性同士の絆と愛情を描いているというところからも、BL映画なのではと思って観に来る観客もいるかもしれません。その辺は意識されているのでしょうか?
去年(2024年)の5月にタイで劇場公開しました。マレーシア映画がタイで劇場公開されるのは、珍しこと。字幕翻訳の問題もあると思いますが。マレー語からタイ語に翻訳するのはたいへんだという話も聞きましたから。今回のタイでの上映は、我々にとっても一つ挑戦でした。どこまで受けてくれるのかな、というところは全く見通しがなかったからです。仰る通り、タイでは多くのBL作品が作られていますが、特に目立った反応はなかったようですね。

──イタリアのウディネ・ファーイースト映画祭では、最高賞を含む3賞を受賞しました。欧米の観客のリアクションをどう受け止めていますか?
幸運なことに、ヨーロッパのいろいろな上映に行く機会にも恵まれました。特にポーランドでの上映は印象深かったです。多くの観客が、まずマレーシアがどこにあるかもわからないという反応が多かった。「マレーシアって国だっけ?」という人すらいました。ヨーロッパでは、移民という主題は珍しくありません。彼らも多くの移民を受け入れたりしていますから。にもかかわらず、IDがない人がいるという現実に対し「どう理解していいかわからない」「なぜこんなことが起こるのか」という反応が多かった。移民や出稼ぎ労働といっても、状況が違い過ぎて想像が及ばないというのです。多くのヨーロッパ人は、生涯ヨーロッパを離れることがなく、そういう全く違う文化圏の人に、IDの問題に共感・共鳴してもらう難しさがあることを実感じました。

また、ヨーロッパでは『アバン アディ(Abang Adik)』というタイトルなのですが、すべての舞台挨拶で、まずこのタイトルの意味から説明しました。アバン アディは兄弟の名前に由来に思えるかもしれませんが、マレーシアの言葉で「兄弟」という意味なのだと説明して回りました。

──台湾の金馬奨ではウー・カンレンが主演男優賞を受賞しました。台湾の人々にとっては共感できる物語だったと思われますか?
宣伝で台湾を訪れた時に聞かれた質問は二つです。台湾人はさすがにマレーシアがどこにあるのかを知っていますが、でも富都がどこなのかという質問が多かったですね。実在の街なのかということも含めて。もう一つが出自主義というか、マレーシアで生まれているのだからマレーシア人なのになぜIDがもらえないのか、という質問が多かったです。

──劇中にテレサ・テンの歌曲を使用していますね。日本でも知名度のある歌手ですが、あなたにとって、そしてマレーシアの方たちにとって、テレサ・テンはどういう存在なのでしょうか?
私の父と母がテレサのファンでした。華僑の人たちにとってテレサは共通言語だと思います。特に父母の世代はみんなテレサに夢中でした。両親はテレサ以外にも、欧陽菲菲や費玉清といった男性歌手の歌も聴いていました。幼い頃に聴いていたので、私にとっても馴染みのある懐かしい歌手です。

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『Brotherブラザー 富都のふたり』(原題:Abang Adik)

出演:ウー・カンレン、ジャック・タン、タン・キムワン、セレーン・リム
監督・脚本:ジン・オング
プロデューサー : アンジェリカ・リー、アレックス・C・ロー
撮影:カルティク・ヴィジャイ
編集:スー・ムンタイ
音楽:片山涼太、ウェン・フン
2023年/マレーシア・台湾合作映画/手話・マレー語・中国語・広東語・英語/115分/2.35:1/5.1ch/DCP&Blu-ray

日本公開:2025年1月31日(金)、ヒューマントラストシネマ有楽町他にて公開
配給:リアリーライクフィルムズ
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