【単独インタビュー】『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター』アルノー・デプレシャン監督が捉えた“憎しみの感情”の行方
- Atsuko Tatsuta
第75回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に選出されたフランスの名匠アルノー・デプレシャン監督最新作『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター』が9月15日(金)に日本公開されました。
有名な舞台女優のアリス(マリオン・コティヤール)と、弟で詩人のルイ(メルヴィル・プポー)は仲が悪く、長い間顔も合わせていない。アリスは両親の交通事故をきっかけに、人里離れた山の中で妻(ゴルシフテ・ファラハニ)と暮らしているルイと再会するが、二人の関係は相変わらずギクシャクとしたまま。そんな二人にさらなる別れがやって来ることに──。
家族なのになぜ憎しみ合うのか。日常にありふれたこの“大いなる謎”をユーモアを交えたミステリータッチで見事に描き出したのは、フランスを代表する監督のひとりであるアルノー・デプレシャン。1984年にIDHEC(パリ高等映画学院=現FEMIS)を卒業後、91年にジャン・ヴィゴ賞を受賞した短編『二十歳の死』(91年)で熱狂的に映画界に迎え入れられて以来、常にフランス映画界のトップを走り続けてきました。日本でも無名のマチュー・アマルリックを主演に抜擢した『そして僕は恋をする』(96年)以来、熱烈なファンを抱えています。
カトリーヌ・ドヌーブ主演の家族の物語『クリスマス・ストーリー』(08年)と地続きともいえる姉弟の物語『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター』は、2022年のカンヌ国際映画祭で高い評価を受けました。
日本公開に先立ち、デプレシャン監督がオンラインインタビューに応じてくれました。
──姉と弟という親しい間柄の人間関係を、ジャンル映画のようにサスペンスフルに撮られましたね。とてもデプレシャン監督らしい映画だと思いました。
そう、私はこの映画でそのことに真剣に取り組みました。つまり、自分にとって最も恐ろしいものに向き合おうと決めました。同時に、神秘的な方法で、光や自由、解放に向かう映画にしたいと思いました。だから今回、およそ起こりうる最も恐ろしい出来事である「子どもの死」から映画を始めたわけです。その直後には世にもおぞましい交通事故が起こります。さらに、アリスが自分を殴る姿がカメラに映し出されます。アリスは弟ルイへの怒りに苦しみますが、弟を殴ることができないから自分を殴る。このように、今回私は最悪の状態から映画を始めたわけですが、一方でこう自分に言い聞かせていました。映画には人生を修繕する力があるんだ、と。この姉弟と一緒に、私は人生を修復する映画を作りたかったのです。
──この作品は『クリスマス・ストーリー』と地続きのようにも見えますが、なぜ姉と弟の愛憎というテーマに取り組むことにしたのでしょうか。
憎しみは時間の無駄だと深く思う年齢に、私もなったからです。『クリスマス・ストーリー』は、弟に対する姉の怒りが解決されないまま結末を迎えました。アンヌ・コンシニが演じる長女をメランコリーに満ちたまま、バルコニーに置き去りにしたわけです。その時私は、「自分の仕事はまだ終わっていないぞ」と思いました。憎しみにきっぱりと決着をつける映画的方法、憎しみとは止めるべきものであることを明らかにするような映画的方法を、絶対に見つけたいと。この作品は憎しみとの闘い、アリスの平和と解放のための闘いの装置なのだと言えます。
──確かに、この作品は憎しみという負の感情を真正面から見つめた作品ですね。最初から立て続けに悲劇が起きますが、亡くなっていく人たちはみんな無垢で善良な方です。まずは子どもが亡くなり、そして若い女性が亡くなって、次に子どもたちを心配し、ずっと愛し合ってきた老夫婦がなくなります。彼らが亡くなっていくというのは大変衝撃的だったのですが、こうした死の連鎖をどうしてこのように位置づけたのでしょうか。
あなたの言うとおり、私もこの死の連鎖はとても衝撃的だと思います。ルイとアリスはある種の不吉なダンスを踊っていて、その周りで人が死に続けている。アリスにはある種の罪、運命のようなものが重くのしかかっています。彼女は狂気にとらわれて、甥に会う機会を逃しました。それがこの映画の最初のシーンですね。甥が死ぬ。世の中に子どもの死ほど衝撃的なものはありません。これは私にとって、人生の中で向き合わなければならなかったテーマの一つです。アリスは望んだわけではなかったにしても、甥に会わないという救いようのない罪を犯してしまった。
マリオン・コティヤールに対して、私が深い感動を覚えたシーンがあります。亡くなったばかりの母親の枕元で、マリオンが演じるアリスが顔も見たことがない甥の写真が入ったメダルを見つける場面です。その瞬間、彼女は涙を流しますが、その時の彼女はまるで自分自身を吐き出すかのようでした。アリスのルイに対する怒り、そして自分自身に対する怒りには、ぜひとも終止符を打ち、そこから彼女を解放しなければならなかったのです。
──先ほど私は憎しみは“負の感情”だと言いましたが、この作品を観ると、あなたは憎しみは決して外に追いやるべき感情ではなく、人間の一つの感情としてそこにあるべきもの思っているようにも感じます。実際には「憎しみ」という感情をどう思っていらっしゃるでしょうか?
憎しみは確かに存在するものです。歳を重ねるにつれて、それが分かってきますね。憎しみは私の身近にも、我々を取り巻く世界、政治体制の中にも見つけることができます。例えば、私がフランス人としてひどく打ちのめされた悲劇があります。(1994年に起きた)ルワンダ虐殺です。こうした憎しみを、我々は止めなくてはいけません。そういう意味で、私は先ほど、この映画は憎しみと闘うための装置だと言いました。どうすればこのネガティブな感情を取り除くことができるのか。憎しみを理解する一つの方法は、この感情が、その名を口にすることさえ憚られる「愛」なるもののある不幸な一側面に過ぎぬのだと、自分に言い聞かせることだと思います。
あなたの話を聞いて、自分の作った映画は確かに衝撃的だと思いました。でも同時に、それこそ私が望んでいたものだとも感じます。なぜなら人生は、その残酷さにおいて、確かに衝撃的なものだからです。そして先ほども言った通り、映画には、現実世界では修復できないものを修復できる素晴らしい力があると思います。
──身近な人の愛情というのは、私たちもよく知っているものでありながら、誰も上手く扱えたことのないテーマであり、そういう意味でもこの作品は大変興味深いと思いました。似たような兄弟や家族の諍いの話を、私もたくさん聞いたことがあります。なぜ二人が憎しみ合っているのか。私たち観客はその糸口を探そうと食い入るように観るわけですけれども、この映画では決してその答えがはっきりと示されることはありません。憎しみにはっきりとした理由がないというのは、ある種のあなたの結論なのでしょうか?
おっしゃる通り、それが私のたどり着いた結論です。諍いの原因の一つとして、確かにアリスとルイの間にはライバル関係があります。アリスは女優でルイは作家ですから、ライバル心はある。そしてルイは不愉快で無礼で厄介な男です。またアリスは一人の女性として人生を歩むために、弟の愛から解放される必要があります。そしてルイは姉のことを本に書いたのですから、確かに彼女を傷つけました。しかし、どの理由も十分ではありません。繰り返しになりますが、憎しみはただの時間の無駄なのです。今言ったすべての理由は、説明のための説明にすぎません。しかも、どれも面白くない。憎しみは説明すべきものではなく、あくまで端的に留めなければならないものなのです。
マリオンとメルヴィルが素晴らしくて、とても感動してしまうシーンがあります。ラスト近く、両親の葬儀の後、二人がカフェで待ち合わせるシーンです。ルイがやって来て座ると、アリスが「ごめん」と言う。「何を謝ればいいのかわからないけど、ごめん」と。その瞬間、すべてが元通りになります。そんな奇跡は映画でしか起こりません。でも、それで良いのです。私たちは愚かだから、現実生活ではそういうことができません。でも映画では、和解を撮ることができます。
──人生では憎しみは消えないということですね。
映画のおかげで消すことができるんですよ。それがフィクションの力です。
──姉のアリスは舞台女優、弟は詩人として結果的に成功していますが、彼らがアーティストであるということは、二人の関係が上手くいかないことに影響を与えてると思いますか?
芸術家であるからといって、他人より賢いということにはなりませんが、私は芸術家という設定を気に入っていました。アリスを女優と決めるまで、そう時間はかかりませんでした。他人の言葉を話す存在である彼女が、自分自身の言葉を見つけなければならなくなる。それはかなりの悪夢、それも興味深い悪夢だと思います。アリスは、両親の事故という人生の劇的な瞬間に直面し、ただ病床の両親の枕元にいたいと願います。しかし、彼女はスポットライトを浴び続ける(舞台に立ち続ける)ことを強いられる。そして同時に、影の中の存在であるルチア(コスミナ・ストラタン)との出会いが訪れます。光の中にいる女性と影の中にいる女性、この二人の対話が私を魅了するのです。
──マリオン・コティヤールもメルヴィル・プポーも、いつもより過激な演技をしているように思えます。アリスは大変感情的ですし、ルイも、アリスの長男のジョゼフ(マックス・ベセット・ドゥ・マルグレーヴ)に酷いことを言ったりと無礼な人です。こういうキャラクター設定にしたのはどうしてですか?
ルイが甥(アリスの長男)にとても無礼かつ暴力的に振る舞うそのシーンを、僕は酷いとも面白いとも思います。彼は一人息子を失うという、癒やし難い喪失を経験しました。一方で、目の前には生きている甥がいる。この生と死をめぐる「躓き」に、彼はショックを受けたのでしょう。ルイは発狂し、甥に野蛮な振る舞いをしてしまいます。
──でも、大人の態度としては結構酷いですよね。
とてもね。ルイは最低な男です。アリスは間違っていない(笑)。
──マリオン・コティヤール演じるアリスも、時に憎しみを爆発させますね。その爆発のさせ方は時に醜くも映りますけれども、どのように演出したのですか?
マリオンにオファーしたのは、彼女が評価を超えた女優だからです。彼女がスクリーンに登場するやいなや、私は彼女に夢中になってしまう。彼女には共感を呼ぶ力、素朴さ、そして子どもらしさがある。それを見ると誰もがマリオンを愛し、彼女のすべてを許してしまいたくなる。だから私は、アリスを否定する映画ではなく、彼女に寄り添う映画を作りたいと思いました。
あなたが言うとおり、ルイはとても野蛮ですし、アリスも同じく野蛮です。レストランで弟に遭遇したとき、彼女は椅子を投げて弟を侮辱しました。そのシーンを撮るとき、私はマリオンにこう言いました。「彼女は今、9歳の小さな女の子のようなものなんだ。怒り狂っていてどうしていいかわからないんだ」と。彼女は馬鹿なことをたくさんします。その緊張感は、彼女が完璧でありたいと願うために生じているように私には思えます。ところが、私たちは完璧じゃない。私たちには子どものようなところもあるし、良くない感情、きれいではない感情、手に負えない感情もあります。ところが、彼女にはそれを表現する言葉が見つからない。だから椅子を投げ捨てるのです。そうして観客は、突然アリスが子どものように愚かなことをするのを目撃することになる。それは衝撃的ですが、同時にほろりともしてしまうところですね。
──マリオン・コティヤール演じるアリスへの共感なしではこの作品を撮れなかったということですが、ということは、あなたはこの子どものようなキャラクターを愛している、そういう人間を愛すべきと捉えていらっしゃるということですか?
大人を見るとき、私はいつもその中に不器用な子ども、叱りたくなるような子ども、罰を受けることを恐れている子どもの姿を見てしまいます。登場人物を見るとき、私はいつも彼らの子ども時代を夢想せずにはいられません。私たちは大人のふりをしながらも、まだまだ不器用な子どもだなと思うのです。
──時に、死が免罪符になることがあります。死に直面するとそれまでの過ちを水に流すというか。例えば、両親の死に直面したために兄弟が仲直りするとか、子どもの死によって今までのことは水に流して仲直りするとか。けれどもこの映画の中で、親の死は姉弟の怒りを増幅させるだけで、何の解決策にもなっていませんね。あなたの死に対する感覚をお聞きしたいです。
ルイが姉の隣に立つことを良しとしなかったせいで、両親の葬式は完全なものになりませんでした。一方、アリスがルイに手紙を送ったことで、二人はカフェで和解することになりますが、その手紙が送られたのも葬式の最中です。まるで姉弟が成長し、子ども時代の喜びを再発見するためには、両親が姿を消さなければならなかったかのようですね。
──なるほど、両親の死が彼らを仲直りさせたというお考えですね。この映画において私が最も共感したのは、両親でした。両親は善良で、死の淵にいたってまで子どもたちの関係を修復させようとして、失敗します。そこに一番胸を締め付けられました。子どもたちが仲直りをするのを見られないまま亡くなっていくというのは本当に残酷なことだと思うのですが、どうしてそのような表現をしたのでしょうか?
私は残酷な映画を作りたかったのだと思います。人生は私を恐怖に陥れますが、その恐怖を飼いならすことを教えてくれるのが、映画であると思うのです。だからこの映画では、残酷さを利用して、人生において私を恐怖に陥れるものに立ち向かいたかった。私は映画館にいる時、人生への恐怖が少しだけ薄らぐように感じます。映画館にいると、少しだけ守られているような気持ちになる。そこでは人生の残酷さを見つめることが可能になります。映画はいつも私を落ち着かせてくれるのです。
──怖いと言えば、車のシーンです。最初、若い女性が乗った車が蛇行して走ってくる。トラックも蛇行して走ってきます。まるで酔っ払って運転しているように見えるのですが、どうしてあのような走らせ方をしたのですか?
若い女性の車はスリップして蛇行したんです。彼女は運転が上手ではなく、スリップし、事故を起こしました。実は私は似たような事故を見たことがあります。父と一緒に、フランス南西部の小さな道を走っていた時のこと。事故を見て、我々も車を止めました。その若い女性の車は木に突っ込んでいて、私は車から降りて彼女を引き出そうと、手を握りました。あたりには彼女の車から流れ出たガソリンが広がっていて、父は後ろの方にいました。幸いなことに、その時はトラックがやって来ることはありませんでした。そうでなければここであなたにこんな話をすることはできなかったでしょうね。だからこの映画のトラックは、私にとって、衝撃とともに映画を駆動させるために必要な運命のようなものだったのです。
──そのエピソードのほかに、あなたの実体験が反映された部分は脚本にあるのでしょうか?
脚本を構想するとき、私は2種類の要素を使います。一つは自分が経験したこと、あるいは経験してはいないけれど恐れていること。もう一つは自分が愛する映画たちです。ですからどこまでが想像でどこまでが記憶に基づくものなのか、よく分かりません。
──登場人物についての質問です。ルイの弟フィデル(バンジャマン・シクスー)には同性のパートナーがいて、ルイの妻フォニアはユダヤ教徒で、イラン出身のゴルシフテ・ファラハニが演じています。そしてアリスに憧れるルチアはルーマニア人です。性的指向や宗教、国籍などにおいて、姉弟を取り巻く人たちに多様性を表象させたのは、フランスの今を反映してのことなのでしょうか?
一方では今のフランスの状況、この国で我々が経験するかもしれないことを反映しています。他方、アリスとルイは自らの怒りに息苦しさを感じているわけですが、観客まで息苦しくさせたくはないという思いがありました。映画の中でフィデルは輝いていますし、同じくルイの親友の精神科医ズウィ(パトリック・ティムシット)も輝いています。また若いルーマニア人の女性は、映画に多様性をもたらしてくれています。主人公の二人は怒りに閉じこめられていますが、他の登場人物たちは、その中で開かれた窓のような存在です。
──アリスは仕事も夫も子どもも置いて、一人で海外へ旅に出ます。あれは彼女が解放されたと捉えて良いのでしょうか?
彼女にはそれが必要だったのだと思います。彼女は最終的には芸術の世界に、夫のもとに、そしてもちろん、息子のもとに戻ってくることでしょう。しかしアルチュール・ランボーが詩を発見するために全てを捨てなければならなかったように、アリスも自分自身を発見するために、一旦はすべてを捨てる必要がありました。誰かの妻であること、他人の言葉を喋る女優であること、子どもの母であることをやめ、“アリス自身”になる必要があったのです。
──なぜアフリカを選んだのですか?
これはフランスの物語だからです。私はサブサハラに行ったことがなく、とても興味がありました。それに、ベナンはアフリカで唯一、フランスからの植民者を打ち負かした国でもあります。私はこの話に魅了されています。ある意味、非常に“幸福な”復讐だと思うからです。アリスはある日突然、完全に環境を変えなくてはならないと感じた。その行き先として、ベナンが現れたのです。決して大きな国ではありませんが、フランスに抵抗することに成功した国です。加えて、ランボーの思い出もありました。
──撮影手法についてもお聞きしたいと思います。メルヴィル・プポーがインタビューで、あなたは撮影中たくさんテイクを撮る監督だとおっしゃっていました。監督によっては、絵コンテ通りにワンテイクで撮る人もいると思うのですが、あなたがこのスタイルを自分のものとして確立した理由は?
撮影を始めるとき、答えがどこがあるのか予め知りたいとは思いません。例えば、先ほども話題になった本屋のシーン。最初撮り始めたときは、これはショッキングなシーンになると思っていました。ところがテイクを重ねるうちに、同時に可笑しいシーンでもあると気づいた。さらに撮り進めると、深く感動的なシーンでもあることが分かりました。叔父のルイが、死んだ息子のことを思いながら、甥に語りかけるシーンだからです。さて、このシーンは一体可笑しいシーンなのか、驚きに満ちたシーンなのか、はたまた感動的なシーンなのか?すべてのテイクで、さまざまな色彩の演技を見ることができ、それによってシーンを豊かにすることができるようになるのです。
もっとも、規則を決めているわけではありません。本屋のシーンは何度もテイクを重ねましたが、アリスのアフリカでの最後のシーンは違います。1テイク目を撮り始めたとき、マリオンは微笑んでいた。右の目から涙が伝い、次に左目からも涙が流れたけれど、彼女は微笑み続けていました──それで終わりです。その演技で、彼女はそのシーンの全てを表現してくれた。2テイク目は必要ありませんでした。
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『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター』(原題:Frère et sœur)
監督:アルノー・デプレシャン
出演:マリオン・コティヤール、メルヴィル・プポー、ゴルシフテ・ファラハニ、パトリック・ティムシット
フランス/2022年/110分/シネマスコープ/5.1ch/字幕:磯尚太郎/字幕監修:松岡葉子/英題:Brother and Sister
日本公開:2023年9月15日(金)よりBunkamuraル・シネマ 渋谷宮下ほか全国順次ロードショー
配給:ムヴィオラ
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