Column

2016.10.12 21:42

アメコミ初心者の心も鷲掴みにする魔法を使う新ヒーロー

  • Kazutaka Yokoo

「高度に発達した科学は魔法と見分けがつかない」――SF作家、アーサー・C・クラークの遺した有名な言葉だ。

この名言がこれ以上ないほどふさわしい映画が、近々公開される。『ファンタスティック・ビースト魔法使いの旅』? 残念、惜しい。『ドクター・ストレンジ』である。

米国での公開をこの11月、日本公開を来年1月に控えたマーベル・スタジオのこの新作映画は、私たちにヒーロー映画の新たな境地を見せてくれるだろう。魔法、すなわち人々の願いを実現する人智を超えた力というものは、神話をはじめ古くからさまざまな創作の題材となってきた。その古典的題材に、今最もホットなムービー・フランチャイズが挑む…それが、『ドクター・ストレンジ』なのだ。マーベル・シネマティック・ユニバース(以下、MCU)は、PHASE2・PHASE3への移行で世界観を広げると同時に、その裏返しの宿命として、新たなファンにとっては次第に敷居が高くなりつつある。おそらくこれをを読んでいる人の中にも、少なからずそのような思いを抱いている方がいるのではないかと思う。この『ドクター・ストレンジ』は、そのようなニューカマーにとって最適の入門作になるだろう。そこがこの作品の“スゴイ”ところなのだ。実は、映画における英雄譚のストーリー展開というのはそれほど種類があるわけではない。手を変え品を変え、私たちファンを楽しませてくれるMCU作品だが、娯楽映画である以上いずれはそのマンネリズムに囚われる――そんな訳知り顔の批評をはねのけるパワーが、この作品にはある。

そこで、ここでは3つの「なぜ」を通して、その魅力を紐解いていきたいと思う。

なぜ、今“魔法使い”なのか?

まず触れておきたいのが、現在のMCUの世界観に魔法という完全なファンタジーを落とし込むことの難しさだ。

日本のコミック文化にはなかなかなじみのない感覚だが、アメリカン・コミックでは基本的にキャラクターごとに版権が設定され、1つの出版社に属するヒーローは1つの世界の住人ということになっている。ゆえに、物語によって複数のヒーローがクロスオーバーするなどということは日常茶飯事だ。日本でいうならば、うずまきナルトとルフィが日々共闘しているような状況である。

だが当然、それぞれのキャラクターが個性的なバックボーンを持っている以上、そのすり合わせは容易ではない。原作コミック群ではこれを割と力技で解決してしまうこともあるが、2時間一本勝負の映画ではそうもいかない。MCUが『アイアンマン』、すなわちマーベルにおけるテクノロジー側の極北からスタートしている以上、その世界観は現実の延長、テクノロジーの原理に支配されたものになる。そこにファンタジーを取り入れるには、綿密な下準備が不可欠だ。極端にいえば、『ターミネーター』と『ハリー・ポッター』を同じ世界で成立させるような困難さを、この『ドクター・ストレンジ』は背負っている。それを可能にしたのが、『マイティ・ソー』と『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の存在だ。マーベル・スタジオはゆっくりと時間をかけながら、アイアンマンが開拓した世界に神や宇宙人が存在する可能性を探ってきた。実は彼らも、MCUの世界観に参戦するにあたってかなりのむずかしさを抱えていたはずだが、綿密に計算された演出により、今や違和感なくファミリーの一員となっている。また、フランチャイズ全体では前作にあたる『シビルウォー/キャプテン・アメリカ』で(様々な見方はあれど)アベンジャーズという組織はいったん形を変えることとなった。つまり、既存の物語の枠組みが、いったん終わったのだ。MCUの世界観に魔法という新たなエッセンスを導入するにあたって、これほどうってつけの機会はない。他にも大勢映像化を待つヒーローがいる中、あえて魔法使いが選ばれた理由がそれだ。物語論的にいうならば、『マイティ・ソー』と『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のおかげで、MCU全体のリアリティ・ラインが下がったのである。そうして魔法という完全なファンタジーを導入する余地が生まれたことによって、マーベルの世界は大きな広がりと変化を見せる機会を得た。『ドクター・ストレンジ』の後なら、たとえば月に都を築いた超古代文明の王がアベンジャーズに仲間入りしても、私たちはきっと驚かないだろう。本作にはこのような、マンネリ化を防ぐための工夫が随所にちりばめられているのだ。

「決まったストーリーラインの上に成り立つヒーロー娯楽映画なんて、興味がないよ」――そういうちょっとオトナなニューカマーにこそ、本作はきっと魅力的に映るはずだ。

なぜ、一風変わった映像演出を用いるのか?

さて、冒頭のクラークの言葉に戻ろう。

アイアンマンやアントマンの特殊技能は分類するとするなら、テクノロジーに位置づけられるが、それがもたらす効果だけを考えれば、魔法と呼ぶにふさわしいものだ。なにしろ、無敵の空飛ぶ鎧と自在に体を縮小できる力である。字面だけを見れば、ファンタジーそのものだ。だが、MCUではこれらを緻密な設定考証と作劇により、見事にテクノロジー由来のものであると観客に信じ込ませた。まさしく、「高度に発達した科学は魔法と見分けがつかない」のである。しかしその弊害として、ことMCU作品においては、並大抵の演出やキャラクターの強さでは、それが魔法であることに説得力を持たせられなくなってしまった。

現実か幻か、空中都市となったマンハッタン。万華鏡のような映像美は、『インセプション』を彷彿とさせる

現実か幻か、空中都市となったマンハッタン。万華鏡のような映像美は、『インセプション』を彷彿とさせる
© 2016 Marvel

なにしろソーの「雷撃」も魔法ではなく、ガーディアンズたちの武器も魔法というよりは異星のテクノロジーである。ここで、予告映像でみられるような万華鏡のような映像美が意味を持ってくる。ああした演出は、これまでのMCU作品とはまったく毛色の違うもので、「これまでのヒーローとは何かが違う」ということを予感させてくれる。単にキャラクターの戦闘力を強くするだけでは、ストレンジが他のテクノロジー由来のヒーローと一線を画する魔法使いであるとするのは説得力がない。あの映像美には、これまでのMCU作品と地続きでありながらも一味違う作風なのだということを、無意識下で我々が受け入れられるようにする作劇的な理由がある。あれが本当に現実世界を作り変えているものなのか、それとも幻覚を見せる魔法なのか、一体世界に何が起きているのか。特報映像だけではうかがい知れないが、今の段階でひとつだけいえることがある。『ドクター・ストレンジ』は、コアファンにとってもニューカマーにとっても、全く新しい未知の体験になる。誰もが同じスタートラインで観られること、それが本作の魅力のひとつだ。

なぜ、今ドクター・ストレンジを映像化するのか?

最後に、なぜマーベル・スタジオが今ドクター・ストレンジを映像化することを選んだのか、その意義についても触れておきたいと思う。

ドクター・ストレンジの主人公、スティーブン・ストレンジのキャラクター性と物語は、MCU第1作の主人公であるアイアンマン=トニー・スタークと極めて似通った部分がある。どちらも高慢なセレブだが、その高慢さが招いた事故をきっかけにすべてを奪われ、現実を知る。しかしそこで心折れることなく、自分がこれまで身に付けた知識や技術を別の道で活かし、ヒーローとして再起する。もっとわかりやすい例をあげると、ふたりとも綺麗にヒゲを蓄えているし、メタな話をするなら、二人とも名探偵だ。

一方で、その背景は極限のテクノロジーと極限のファンタジーで完全に二分されているのはここまで触れてきたとおりである。思うに、今ドクター・ストレンジを映像化することには、1作目を見つめ直し、マーベル・スタジオが新たなスタートを切るという意味合いがあるのではないだろうか。その意味では、『ドクター・ストレンジ』は“ニュー・アイアンマン”といえるのかもしれない。空前の大ヒットを記録した2012年公開の『アベンジャーズ』以降、MCUの世界は加速度的に広がりを見せ、新作のたびに新たな伏線がはられ、同時に数多くの伏線が回収されてきた。そうした緻密な舞台づくりが面白さを支えている一方で、ジョス・ウェドンも嘆いていたように、時にはその深遠な世界観が枷となる場面も散見されるようになった。それでも毎回期待を超える作品を世に送り出し続けるのがマーベル・スタジオの恐るべきところであるが、とはいえそろそろ一度、肩の荷を下ろす機会が必要だったのではないかと思う。あらゆる意味で新しい『ドクター・ストレンジ』は、そのようなリフレッシュにうってつけの題材だったのだ。この作品は、十数本の映画を世に送り出し続けてきたマーベル・スタジオにとっても、文字通り“ストレンジ“つまり一風変わった挑戦となる。が、だからこそ、「アメコミ映画はどこから見ていいのかわからないし、ファンたちはみな詳しくて入っていきづらい」というニューカマーにこそ、深く刺さる作品になるだろう。『ドクター・ストレンジ』は、続編ではない。クロスオーバー作品でもない。“ドクター・ストレンジ”という、新しいヒーローの物語である。ぜひその姿を見に、劇場へ足を運んでほしい。いや、きっと運ばずにはいられないだろう。もう私たちは、ストレンジの奇妙な魅力に囚われてしまった。そう、なぜなら彼は――魔法使いなのだから。