Column

2023.06.23 21:00

【単独インタビュー】『遺灰は語る』パオロ・タヴィアーニ監督がスクリーンに焼き付けた映画の虚構における“真実”

  • Atsuko Tatsuta

イタリアの名匠パオロ・タヴィアーニの最新作『遺灰は語る』が6月23日(金)に日本公開されました。

1936年に亡くなったノーベル賞作家ルイジ・ピランデッロ。生前、この偉大なるイタリア人作家は「遺灰は故郷のシチリアに」という遺言を残したが、時の独裁者ムッソリーニは、ピランデッロの国際的な名声を利用するため、遺灰をローマに留めた。戦後、ようやく遺灰は故郷へ帰ることになり、シチリア島アグリジェント市の特使がローマへやって来る。予定されたアメリカ空軍機は飛ばず、列車に乗ると、遺灰が入った木箱が行方不明に──果たして、遺灰は無事に故郷で埋葬されるのか?

世界の映画ファンに愛されるイタリアの名匠タヴィアーニ兄弟は、カンヌ映画祭パルムドールに輝いた『父/パードレ・パドローネ』(77年)、『カオス・シチリア物語』(84年)、日本でも大ヒットした名作『グッドモーニング・バビロン!』(87年)、ベルリン映画祭金熊賞の『塀の中のジュリアス・シーザー』(12年)など数々の傑作を発表してきました。2018年に兄ヴィットリオが88歳で亡くなり、本作は弟パオロが初めて一人で監督した作品にあたります。

兄弟が手掛けた1984年の傑作『カオス・シチリア物語』の原作者である大作家ピランデッロの“遺灰の旅”をユーモアをもって描いた本作は、イタリアの戦後史をも語る傑作として高く評価され、昨年のベルリン国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞。ピランデッロが死の20日前に書いた短編小説「釘」を原作とする約20分の短編映画が加えられているユニークな構造にも、ピランデッロと兄ヴィットリオへのオマージュが感じられます。

日本公開に際して、現在91歳のパオロ・タヴィアーニ監督がオンラインインタビューに応じてくれました。

──2018年のヴィットリオさんの逝去、心からお悔やみ申し上げます。『遺灰は語る』の中心となる遺灰の主であるルイジ・ピランデッロは、『カオス・シチリア物語』の原作者であり、あなたと繋がりが深い作家です。単独で監督を務めることにした本作で、ピランデッロをテーマにしようと決めた理由は?
なぜ、ピランデッロかと問われれば、本当のところよく覚えていません。コロナ禍の影響もあったかもしれません。というのもピランデッロは、私とヴィットリオにとっていつも一緒にいる作家でした。ヴィットリオと二人で映画を撮っていた時にも、心のありようや感情について考える際に、常に彼の著作に寄り添いました。

『カオス・シチリア物語』を撮ったのは、もう40年前のこと。ヴィットリオと二人で映画を撮る時は、ゲーテなど他の作家を題材にしたこともありますが、その場合でも、作家や小説を説明するために映画を撮るわけではありません。私たちが映画を撮る時は、脚本家や助監督といったチームで仕事をするわけですが、そのチームの中のひとりとしてピランデッロだったり作家がいるという感覚です。私たちは、映画を撮るために虚構を作り出したりしますが、おそらくピランデッロがこの作品を観たら、満足してくれると自負しています。これからも、彼は私の側に居続けてくれる作家です。

©Umberto_Montiroli

今、思い出したことがあります。ヴィットリオと私が撮った『アロンサンファン/気高い兄弟』(74年)をとある高校で上映したことがあり、そこで先生から「1800年代の話だが、時代考証がなっていない。嘘ばっかりだ」と言われました。そこで、私たちはこう答えました。「例えばジャンヌ・ダルクの話は、ロッセリーニやブレッソンなどいろいろな映画作家が映画化していますし、シェイクスピアも書いています。でも、どれがジャンヌ・ダルクの真実かはわかりません。つまり、映画には映画の真実がある。映画の作り手を信じていて、その作品に力があるのであれば、観る側はその作品に身を委ねる必要があるでしょう。それが映画の魅力なのではないかと思います」とね。

──真実ということで言えば、この映画でピランデッロの遺灰は、ローマからシチリアに旅をしますが、そこで起こること、例えば遺灰がアメリカ軍の飛行機に乗せてもらえなかったり、遺灰が入った木箱が盗まれたり、棺桶が子ども用で小さすぎたりといったエピソードは、史実に基づいているのですか?
史実に則したものもあれば、虚構もあります。事実を元にデフォルメしたものもあります。

──それが、フィクションにおける“真実”、映画における“真実”ということですね?
ピランデッロの葬儀を描くにあたって、私が思い描いていたのはグロテスクなものでした。例えば、伝記映画。ジョン・フォードがリンカーンについて撮った映画は、彼が弁護士をしていた若き日を描いていますが、事実だけではなく、虚構も含まれています。でも、そこにある映画の魂は、本物なのではないかと思います。描き方が正しいとか正しくないと判断する気はありません。とにかく映画の価値はフィクションにおける真実にある。映画だけが価値のあるものだと思って観て欲しいと思います。

ヴィスコンティの『黒猫』(63年)は、原作の小説も素晴らしいものです。映画と小説の物語は同じですが、作品としてはまったく別物ともいえます。時間を超越して、作家と映画監督がコラボレーションしているともいえます。それが素晴らしい。例としては、絵画がわかりやすいかもしれませんね。聖母マリア像はカラヴァッジョに始まり、いろいろな画家が描いています。それらはひとつとして同じものはありませんが、誰のマリア像が「正解」だと問われることもありませんよね。それとありがたいことに、私は映画監督として称賛を浴びてきました。でも私は、素晴らしい芸術家をコピーしているだけだとも思います。少しでも先人を超える部分があれば良いなと思いますが、それでも模倣しているだけです。

──この作品は構成も大変興味深く、冒頭は記録映像から始まり、ロードムービーとなり、最後にはピランデッロの短編小説「釘」を原作とした20分の短編映画がエピローグを飾ります。この構成は最初から考えていたのですか?それとも、作っているうちに自然と出来てきたものでしょうか?
構成は最初から大枠は決めていましたが、変わった部分もあります。

シチリアで撮影している時にコロナ禍が始まり、制作を中断しなければならなくなりました。3分の1ほど撮ったところで私たちはローマに引き上げ、ラッシュを観たり、脚本を読み返したりしていました。気がついたら、私は脚本に手を入れ始めていました。同じようなストーリーですが、もっと自由に、心のままに書き直してみました。パンデミックの恐怖のなせる技なのか、私自身もなぜか自由な気持ちになれました。それ以前には見えなかった新しい道も開けてきて、その結果として、映画も変わっていったと思います。こうして私は映画という作品を通して、嘘をつき続けるわけです。次作もすでに構想があるのですが、それもまた真実と虚構の境界線を描くことになるでしょう。

ちなみに、今作のタイトルはイタリア語で『Leonora addio(さらば、レオノーラの意)』です。元の脚本にはこのタイトルが示すようなレオノーラのシーンもありましたが、書き直した段階でそのシーンはカットしてしまいました。映画が出来上がって最後にタイトルを決める段階になって、プロデューサーが「素敵なタイトルだから、そのままでいいんじゃないの?」と言うので、シーンがないにも関わらず、タイトルだけが残りました。

──エピローグとして、ストーリー的にはまったく異なる短編『釘』を加えた理由は?この「釘」は、『カオス・シチリア物語』を撮った時に映画化したいと、ヴィットリオと二人で話していたそうですね。
『カオス・シチリア物語』を撮った後に「釘」を映画化しようと思っていたのですが、断念しました。というのは、「釘」はブルックリンが舞台なのですが、(ローマのスタジオ)チネチッタで『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』を撮っていたセットを使って撮ろうと思っていました。なのに、撮影所が建て直しのためにセットがすべて取り壊されてしまいました。あの世界観をまた作り出すのは、到底無理でした。

でも今は、デジタル技術があります。月の映像だって、地球にいながら撮れます。詩情を湛えたポエティックな映像で、どんな場所でも時代でも撮影できるようになりました。なので、今ならイタリアにいながらブルックリンを舞台にした「釘」を撮れると思ったのです。しかも、この小説はピランデッロが死ぬ20日前に書いた最後の短編です。彼の葬式にまつわる一連の出来事の一部になっているのではないかと考えました。

『釘』は、(ローマの)チネチッタで撮りました。何もないスタジオでしたが、埃の舞う広場をテクノロジーによって映し出すことができました。本当に素晴らしい祝福すべき技術です。

この映画で描いたピランデッロの遺灰は旅はフィクションですが、ピランデッロ的ですし、同時にヴィットリオ&パオロ・タヴィアーニ的でもあります。映画の冒頭でピランデッロがノーベル賞を受賞するシーンは、アーカイブ映像だったのでモノクロなのですが、そのモノクロをとても美しく表現できたのも、テクノロジーのおかげです。色が爆発するシーンも然りです。

最初と最後に、観客が自分たちは今劇場にいるのだという挿入があります。それは、悲劇もすべてショーだったのだということを示したかったから。すべてが虚構であり、それが映画の真実であるというところで終わりにしたかったのです。

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『遺灰は語る』(原題:Leonora addio)

監督・脚本/パオロ・タヴィアーニ
出演/ファブリツィオ・フェラカーネ、マッテオ・ピッティルーティ、ロベルト・ヘルリツカ(声)
2022/イタリア映画/90分/モノクロ&カラー/字幕:磯尚太郎/字幕監修:関口英子

日本公開/2023年6月23日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次公開
配給/ムヴィオラ
© Umberto Montiroli