Column

2023.05.27 21:00

【単独インタビュー】『aftersun/アフターサン』シャーロット・ウェルズ監督が映した娘から見た父親の肖像

  • Atsuko Tatsuta

※本記事には映画『aftersun/アフターサン』のネタバレが含まれます。

A24注目の新星シャーロット・ウェルズの長編監督デビュー作『aftersun/アフターサン』が5月26日(金)に日本公開されました。

11歳の夏休み、トルコのリゾート地にやってきたソフィ(フランキー・コリオ)と、離れて暮らす父カラム(ポール・メスカル)。まぶしい太陽の下、二人はビデオカメラを互いに向け合い、親密な時間を過ごします。20年後、父と同じ年齢になったソフィは、懐かしい映像の中に、大好きだった父の、当時は知らなかった一面を見出していき──。

監督を務めたスコットランド出身のシャーロット・ウェルズは、ロンドン大学キングスカレッジで古典を学んだ後、オックスフォード大学とニューヨーク大学で修士号を取得し、現在はニューヨークを拠点に活動する新鋭。本作では第75回カンヌ国際映画祭批評家週間でのワールドプレミアを皮切りに、英国作品賞など4部門にノミネートされた英国アカデミー賞で英国新人賞を受賞。A24により配給された米国では、全米監督協会(DGA)賞新人監督賞を獲得するなど、その手腕が高く評価されました。さらに、主演のポール・メスカルは第95回アカデミー賞で主演男優賞にノミネートされる快挙を成し遂げています。

ウェルズが執筆した脚本には、『ムーンライト』のバリー・ジェンキンスが自らプロデューサーに名乗りを上げるほど惚れ込み、オバマ元米大統領が年間ベストの1本に選出するなど、目利きの映画人からも称賛を浴びています。

公開に先立ち来日を果たしたウェルズ監督が、Fan’s Voiceの単独インタビューに応じてくれました。

──『aftersun/アフターサン』は初長編作品とは思えないくらい素晴らしい作品で、ストーリーだけでなく、映画の構造、技術面においても熟考されていながら、実験的でもあり、とてもフレッシュな作品であることにも感銘を受けました。あなたは、ニューヨーク大学ティッシュ芸術学部大学院在学中に、『Tuesday』(15年)、『Laps』(17年)、『Blue Christmas』(17年)という3本の短編映画を作られていますが、『aftersun/アフターサン』は手の届かないところに行ってしまった父親というテーマにおいては、『Tuesday』に近いものがあるように思いました。何かコネクションはあるのでしょうか?
今回の映画のアイディアはフィルムスクールの最終学年の時に出てきて、学期を通して教授と一緒に温めました。非常に初期段階のものですがね。『Tuesday』との共通点については、『aftersun/アフターサン』が完成し、インタビューなどでにこの映画について話すようになって初めて気づきました。確かに2作とも同じような世界観です。時間的にも関係性も別の地点のものですが、時系列的には『aftersun/アフターサン』が先で、『Tuesday』が後。究極的には、両作品は同じ哀しみを表現したものですが、『aftersun/アフターサン』の方がより成熟したバージョンといえると思います。

──とあるインタビューでは、この物語にあなた自身の体験が投影されているとおっしゃっていました。映画でははっきりとは描かれていませんが、ポール・メスカル演じるカラムは、あの後亡くなったと受け取る観客も多いと思います。実際、この作品はあなたのお父様に向けて作られた作品なのでしょうか?
私は、ティーンエイジャーの頃に父を亡くしています。ソフィよりもう少し上の年齢の時でしたね。『Tuesday』も本作も、その体験からインスピレーションを得ています。ただ本作は、自伝ではなく、自分の父との関係のエッセンスを取り込んだ作品だと考えています。一般的に映画では、父親は不在だったり機能不全だったりするイメージで描かれる方が多いように思いますが、今作ではとても親しい関係の父と娘の姿、そして良い父親の姿を描きたいと思いました。私自身の父親を追悼している面もあると言えます。

──ソフィは父親に甘える一方で、同情したり、皮肉ったり、時には大人の視点から父カラムのことを見ています。11歳という年齢は、実際に子どもでありながら、大人の複雑な事情をかなり理解できる年齢でもあります。この年齢設定にはどのような意図があったのでしょうか?
最初に直感的に11歳が良いと思い、それからよく考えた上で、その年齢に設定しました。もっと幼い6歳くらいだと、まだ親に頼っている部分が大きく親との関係性も異なるし、周囲の目もあまり気にしません。逆にもう少し年上のティーンだと、青春真っ只中で、周りとの人間関係も気にしがちになります。11歳はその両方に足をかけているような、“いいとこ取り”ができる年齡だと思いました。まだ幼さもある一方で、周りの年上の子どもたちに感化されて自意識が芽生え始める変化を、映画を通して描けます。

それから、親に対する見方が変わってくる年頃でもあります。多くの子どもにとって、大人はそれぞれの“役割”の中で生きていて、先生は先生として、親は親としてしか見ていない。ところが、彼らの中にその役割とは別の顔が垣間見えてくる瞬間があり、特にその相手が親の場合──親を一人の人間として見るようになった時に、失望を覚えることが多いように思います。大人になる上では必要な経験ですがね。

──最近、メンタルヘルスを扱った映画が多いような印象があります。本作でも、カラムは精神的に問題を抱えているようです。そんな中、11歳のソフィが父親に失望してしまう瞬間も描かれますが、それは父親をさらに傷つけると思われます。メンタルヘルスというテーマを父と娘の物語に取り入れた理由は?
カラムというキャラクターを良い父親として描きながらも、もがいている面もいろいろとある人物とすることに興味がありました。若くして父親になり、まだ成長途上で、自分でも理解しきれないほど深い絶望を覚える瞬間のある人物。そうすることで、大人のソフィも観客も、彼が置かれている状況を完全には理解できなくなるわけですが、それがメンタルヘルスによる苦しみの本質でもあります。わかりやすく診断できたり、簡単な治療法があるようなものではないし、想像の通りなものでもありません。私はそうした点を描くことに興味がありました。映画でありがちな表現でメンタルヘルスによる苦悩やうつ病を描くことはせずに。

ソフィには、父親のそうした面には気づかないままでいて欲しいと思っていました。ちょっと何かがおかしいと思ったり、ケンカとなってしまう瞬間もあるけれど、基本的にはとても良いバカンスで、彼女は楽しい時間を過ごしている。何かあってもすぐに許し、すぐに忘れる。逆にカラムは、そうした瞬間を長く引きずります。カラムがホテルの部屋の鍵をかけてしまいソフィが入れなくなった時も、彼女はそれほど気にしていません。観客は、ソフィが危険な目に遭ってしまったり、何か悪いことが起きてしまうと思うかもしれませんが、実際は何も起きません。そして翌日、その過ちに気が付いたカラムはすぐには自分を許すことができず、引きずるわけです。ただ、映画の中でのこのような瞬間を過度にドラマチックに描きたくもなく、登場人物が経験したこと以上に誇張しなくとも、観客はこうした瞬間のインパクトを理解できると思っています。

──まさにそのシーンについてお聞きしたいと思っていました。ソフィが夜中にホテルに帰った時、ドアに鍵がかかって締め出されてしまうシーンの少し前に、カラムが海に入っていくシーンがありますよね。自殺と誤解する人もいるかもしれません。あのシーンは幻想なのでしょうか?それともリアルなのでしょうか?
(笑みを浮かべて)そこまではっきりと聞かれたことがなかったので、笑顔になってしまいましたが…私は想像だと考えています。翌日、あるいはもっと後で知ったことに基づいたソフィの想像でしょうか。カラムが一人のシーンは基本的に、大人になったソフィが、彼女の見えないところでカラムがどのように苦しんでいたのかを想像したものだと思っています。非常に内的な経験を具体化したものですね。そうした内面的なものをいかに形にして表現するかというのは、内的葛藤を描くこの映画を作るにあたって私が自分に課した課題といえます。

そして、想像の視点によるシーンは、より自由な表現が出来ます。「底なしの海に入っていくのはどんな感じだろう?」というのなら、底なしの海に入っていく人物を映せば良いわけです。あのシーンの後、ソフィが寝ている場面に切り替わるのは、現実との境界線が曖昧になるから。脚本とは異なったのですが、その方が現実と記憶、夢とファンタジーの境界線がさらに曖昧になりました。ただ、演出するには難しいシーンでした。海に入っていくモチベーションとは何だったのかを、ポールが知りたがったので。私は想像の中のシーンとして捉えていたので、回答に困りました。

──どのようにポールを説得したのですか?
特に説得が必要だったというわけでもないのですが、脚本としては、彼が歩いていき、タバコを手に取り、進んでいくのを背後から撮る。その時の彼の感情や、彼が前へ前へと突き動かされ、カメラも彼を背中から押す、といったようなことを考えましたが、最終的には、私もカラムというキャラクターの中に入ってその時のことを考えざるを得なくなりました。というのも、ポールは服を着た状態で何度も…実際には4度でしたが、海の中に入っていかなければならないわけで、私が両手を上げて「このシーンは現実じゃないから」と言うのはフェアではありません。俳優が、私が想定したのとは違うものを必要とすることに気づかされた、監督として興味深い瞬間でしたね。具体的に何を言ったかはよく覚えていないのですが──海に入るだけの、何かしら納得できることを言ったのでしょう(笑)。

──無邪気でいる娘が父親にとっては残酷な仕打ちになるということでいえば、ソフィがカラオケを歌うシーンも印象に残っています。カラムが好きな歌だということで、R.E.M.の「ルージング・マイ・レリジョン」を歌いますが、あれは絶望の歌ですよね。父親としては、あの場で娘から絶望の歌を歌われるというのはなかなか残酷だと思いましたが、この曲を彼女に歌わせたというのにはどういう意図があるのでしょうか?
はい、あの夜はカラムにとって辛かったと思います。あの撮影を行った夜、二人のシーンを撮っていた頃は早い時間で余裕があり、いくつかのテイクを試すことができました。カラオケの後、歌のレッスンを受けるのはどうかと言うカラムに、ソフィが「お金もないのにそんなことやめてよ」と吐くシーンがありますが、会話の様子やカラムがどれほど傷いた様子を見せるかで、異なるバージョンを撮りました。最終的に使ったのは、カラムが笑みを見せるテイクでしたが、あの瞬間にキレることなくソフィに向き合おうとできる自分の成熟ぶりが、彼自身にとって想定外だったわけですね。あの日は二人の波長がずっと合わず、ソフィのカラオケの歌を聞くのも辛かっただろうし、後に来る「ハッピーバースデー」や「For He’s a Jolly Good Fellow」の歌のシーンも同様に辛かったと思います。

R.E.M.の「ルージング・マイ・レリジョン」はおそらく私が初めて歌詞を全部覚えた曲です。自分の成長と、父を連想させる曲でもあります。歌詞についてはそれほど考えていなかったのですが、編集段階になって、いかにその歌詞が映画の中で際立っていて、きっと観客はその意味を汲み取ろうとするだろうと気づきました。これは他の(歌詞のある)楽曲にも言えることで、それ以外のサントラの部分は比較的静かですからね。

「ルージング・マイ・レリジョン」は、必ずしもその文字通りの意味を表していない曲なので、気に入っています。私の理解では、アメリカ南部では、ルージング・マイ・レリジョン=“冷静さを失う”というような意味があります。そうしたいくつものレイヤーがあるというか、あることを歌っているようで、別のことを歌っているように聞こえるのが良く、でもやり過ぎていない感じで、このシーンにふさわしいと思いました。まずこの曲が良いと思ったのですが、そうした直感は、基本的には熟考しつつも信頼した方が良いと思っています。

──フランキー・コリオは、この父と娘の複雑な関係を完璧に理解していたのでしょうか?
その時々の状況以上のことはあまり考えていなかったと思います。完全な脚本は見せておらず、ポール、フランキー、私の3人で脚本を読み合わせた時も、彼女のセリフのシーンのみの紙の台本を渡しました。カラム一人のシーンや、ト書きは省いたものですね。でも頭の良い子なので、撮影が進むに連れて、彼女に伝えていないことや見せていないものがあることに気づき始めていました。彼女が何かを見つめるところを撮っても、その見つめるものは見せなかったり。そうしたギャップがあることを、彼女は多少は気にしたふしもありましたが、ほとんどは気にすることなく、とにかく撮影を楽しんでくれました。私たちも、彼女が楽しみながら現場にいてくれるよう、努力しました。それから彼女はポールのことが大好きで、毎日一緒に過ごしていました。カットがかかったらすぐに、「ねえポール、部屋に来て遊んでくれる?」と言ったりして。ソフィの姉弟も含め、ポールは一緒に遊んでいましたよ。

いずれにせよ、彼女はカラムとソフィが親しかったという二人の関係のエッセンスは理解していたと思います。映画のことをどう思っていたのかはよくわかりませんが、あまり気にしてもいなかったと思います。とにかく彼女を飽きさせずに撮影に参加してもらうことに集中していました。

──完成した映画を観たフランキーはどのように反応したのですか?
フランキーはカンヌで初めて完成した映画を観ました。それまでは、アフレコで断片的なシーンを目にしただけ。カラオケのシーンが心配だったので、「上映中は怒らずに、私に怒るなら上映後にしてね」と伝えました。上映後はすごく気に入ったと言ってくれましたが、カンヌでの体験に圧倒されていたのだと思います。2回目か3回目にロンドンで観た時には、泣きながら壇上で詰め寄ってきて、私と目を合わせて「なんでこんな悲しい映画を作ったの」と言ってくれました。本当に感動しました。彼女が、自身の今作との関係を超えて、ひとつの映画として感じとってくれたので。この映画を11歳に向けて作ったとは思っていなかったので、本当に意外でしたが、とても嬉しい出来事でした。

──最初にも申し上げたように、この映画は構成的にも大変挑戦的で、映画監督たちがこの作品を高く評価するのも納得です。記憶と記録についての作品でもありますけれども、もともと映画は記憶するというアートフォームでもあるわけですね。その、映画というアートフォームが持つ元々の資質と、記憶と記録というテーマを、ご自分の中でどのように結びつけたのでしょうか?
うーん、そうですね……バカンス、レイヴ、現在、ビデオカメラの映像など、さまざまな要素を考慮するのに長い時間がかかりましたが、最終的にはビデオカメラの映像がこの作品の鍵になったと思います。ビデオカメラの映像は、休暇中に起こった出来事をほぼ事実として捉えた記録であり、それ以外はすべて記憶されたもの、あるいは想像されたもの、あるいはその2つが組み合わさった物だと考えています。またこれは、視点の問題でもあると言えます。というのも、視点がないものはないですからね。この映画を包括する視点は大人のソフィですが、それは絶対的なものではなく、その中に視点のようなものがあります。ビデオカメラの映像というのは、最も直接的な視点を与えてくれます。一人の人間が他の誰かにレンズを向けることで、その人の視線に最も近いものになるわけですからね。

この映画での視点を整理するのはとても複雑だったのですが、映画とは記録であり、同時に、どんな種類の記録もいかに不完全なものであるかを示すものでもあります。そうした記録は、誰かの記憶や感覚、匂い、感覚を引き出すためのきっかけのようなものであり、私たちは、その点における映画の持つ力を考えたわけです。人は常にフレームの外にあるものを探します。この映画は、フレームの外にあるものを探し求める映画であり、映画の中の相手でもそうでなくても、人には“それだけしか”近づくことができないのです──質問の答えになっていたらいいのですが。

──そういう意味でこの作品は、プルースト的でもあるわけですね。
はい。ありがとうございます(照れ笑い)。

──その点はもともと意識されていたのですか?
いいえ、制作中は特に考えていませんでしたが、後になって明確になりましたね。

──レイヴのシーンで、ストロボの閃光が印象的に出てきますね。そして最後にカラムが空港でソフィを見送り、消えていくときにドアの向こうでストロボが光っている。これはどういう意味なのでしょうか?
脚本の初稿はレイヴのシーンで終わらせていたのですが、その先のシーンを追加することで、映画の中の異なる視点、異なる世界を結びつけることになったと思います。もともとは、この映画が観客にどのように理解されるかという懸念を、ストーリーを追いやすくすることで解決する現実的なやり方だと思っていましたが、時が経つに連れ、レイヴで映画を終わらせることが、この映画の持つ感情をふまえるといかに絶望的であるかを理解するようになりました。話をソフィに引き戻し、実際にソフィのシーンを加えることで、父から受けた愛が時を超えて現在にも引き継がれ、その哀しみと記憶の空虚に残されたままにならないようになると思いました。

当初はカラムがドアをくぐったところで終えると思っておらず、彼が見えなくなった後もカメラが回り、再びソフィを映し、トルコの浜辺で海を見つめる二人を映すという流れを考えていました。でも、彼がそのドアを歩いていく画の力が本当に強くて(笑)、そこが終わりのような感じがしました。その後に何を続けても、緊張感を断ってしまうというか、ようやくある種の答えにたどり着いたのをムダにしてしまう気がしました。ただ、背景音はソフィの部屋のまま続くようにしました。というのも、視点は大人のソフィの想像から変わっておらず、これでソフィがあの時を振り返るのを終えて、ある意味で彼を手放し、行かせてあげたことになったわけですから。彼が入っていくストロボが閃くあの空間は、彼が自由を見出した場所であり、逃げることもできない場所。ソフィはそこに彼を残すことにしたのですね。

──クイーンとデヴィッド・ボウイの「アンダー・プレッシャー」を使うことは、当初予定していなかったとのことですが、結果的に、インパクトの大きいシーンになりましたね。
この曲を使う想定はしていなかったのですが、ヴォーカルのないバージョンを以前から聴いたことがあって、とても感動させられる曲だなと思っていました。編集で曲をあてる時も、あの歌詞が映画の終盤で起きていることを歌っているとは思ってもいませんでしたね。説明的な描写を全力で避けてきた映画なのに、デヴィッド・ボウイとフレディ・マーキュリーを通してそんな描写をするとはとんでもないことだとも思いましたが、上手くはまり、これで良いという感じがしました。二人の人物と関係性をなるべく自分が思い描いた通りに、陳腐な表現を避けてさり気なく表現するよう努力していたのですがね……でもあそこまでくれば、もう真っ直ぐな表現にしても良いかなと。最終的には怖れることなく、歌詞に語ってもらう決断ができました。

友人からは「大きな選択だね」と言われました。その通りですが、これで良いと思っていますし、この映画を観ていて特に好きだと思えるシーンのひとつです。オリヴァー(・コーツ)が作曲したスコア、そしてヴォーカルからチェロに移り、カラムが倒れて大人のソフィと幼いソフィを目にするところでのパーカッション。この映画で全てを完璧にできたわけではないし、それは不可能なことですが、この終盤のシークエンスは、脚本に書いたことや私が表現したかったことに完璧に近い形となりました。

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『aftersun/アフターサン』(原題:Aftersun)

監督・脚本:シャーロット・ウェルズ(初長編監督作品)
出演:ポール・メスカル、フランキー・コリオ、セリア・ロールソン・ホール
プロデューサー:バリー・ジェンキンス ほか
2022年/イギリス・アメリカ/カラー/ビスタ/5.1ch/101分/字幕翻訳:松浦美奈/G

日本公開:2023年5月26日(金)ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿ピカデリーほか全国公開
配給:ハピネットファントム・スタジオ
公式サイト
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