Column

2023.01.19 18:00

【単独インタビュー】『世界は僕らに気づかない』​​飯塚花笑監督が光を当てる移民の母と息子の愛の模索

  • Atsuko Tatsuta

大阪アジアン映画祭にて「来るべき才能賞」を受賞した飯塚花笑監督最新作『世界は僕らに気づかない』が1月13日(金)に公開されました。

群馬県太田市に住む高校生の純悟(堀家一希)は、物心ついたときからフィリピン人の母レイナ(ガウ)とふたり暮らし。父親については何も聞かされておらず、毎月振り込まれる養育費だけが父親との唯一の接点でした。恋人の優助(篠原雅史)からパートナーシップを結ぶことを望まれた純悟でしたが、生い立ちが引け目となり、積極的になれずにいます。そんなある日、レイナに交際相手と再婚すると告げられ、見知らぬ男と暮らすことに抵抗を感じた純悟は、実父を探し始めますが──。

トランスジェンダーである自らの経験を元にした『僕らの未来』が国内外で注目を集め、2022年には『フタリノセカイ』で商業映画デビューを果たした飯塚花笑監督。構想8年の末に完成させた『世界は僕らに気づかない』は、異なる文化をもつ母親と息子をめぐる愛の模索についての物語です。

大阪アジアン映画祭でのプレミア後、ドイツ、韓国、ニューヨーク、香港、オランダ、フィリピンなどの各地の映画祭で高評価を得て、満を持して迎えた日本公開に際し、飯塚花笑監督がFan’s Voiceの単独インタビューに応じてくれました。

──これまで一貫して社会的弱者に焦点を当てて映画を撮られていますが、フィリピン出身のシングルマザーとその息子の物語というアイディアはどこから来たのでしょうか?飯塚監督も群馬のご出身ですが、ご自身の経験から発想されたものですか?
僕が生まれ育ち、今も住んでいる群馬県は、いろいろなルーツを持った方が多く住んでいます。工業地帯があって──例えば代表的なのはスバルの太田工場というのがあり、その周りには日系のブラジル人が多く住んでいたりします。そして、工業地帯があると、その工場で働いている方々向けの、いわゆる風俗街ができるんですよね。群馬にもフィリピンパブがあり、フィリピンの二世の子だったりとか、日系ブラジル人の家系の子が、僕の身近には幼少期から当たり前にいました。ただ、幼少期には──たいていの日本人が未だにそうだと思いますが──身の回りに人種的に別のルーツの方がいることについて考える機会はあまりないと思います。当時の僕もそうで、同級生にブラジル系の子がいたりしましたが、彼らは親の転勤などでどんどん転校してしまったりして、そういう環境の中で、学習が追いつかないといった問題を抱えていました。でも、彼らの背景にあるものが何なのか、考えたことはありませんでした。

近年になって、そのことについて考えるべきだなと強く思い始めました。明確なきっかけがあったというわけではありませんが、例えば2018年のラグビーワールドカップではいろいろな国のルーツを持つ方が日本代表として戦い、“彼は日本人なの?”と議論が起きたりしていました。それは日本人の考え方が、現状に追いついていないのだと思います。見た目が従来の日本人でないと「日本人」として捉えられないような人種的な幻想が、まだある気がします。やはりこれは考えなければいけない問題だと思い始めたことが、今回のテーマやキャラクターの基になっています。

──脚本はどのように書き始めたのですか?
構想期間が長く、最初に脚本の執筆を始めたのは8年ほど前でした。当時まだ、今の出来上がった映画の脚本とはかなり違う内容で、ゲイの男の子が、自分のセクシュアリティを受け入れてくれない母親と対峙する物語でした。母親は家庭を顧みないタイプで、彼が学校でイジメられたりすることになかなか気づかず、母と子の対立が生まれるというような物語。

その脚本を書いた時から、社会がものすごく変わってきています。具体的には、2014年──制度が始まったのが2015年かな──パートナーシップ制度が渋谷区で初めて出来ました。メディアにもセクシュアルマイノリティの表象や、LGBTという言葉が一気に出てきました。案の定、映画界の状況も変わってきました。当時、僕は映画界に入ったばかりでしたが、映画の企画でセクシュアルマイノリティの作品をやりたいと言うと、当たり前に「俳優がやりたがらないよ」とか「俳優がやりたがらないということは、良い俳優が使えないからお客が入らないよ」、「こういう作品は色物として見られちゃうし、セクシュアルマイノリティの当事者しか観てくれないから絶対ダメだよ、ヒットしないよ」というように、企画の段階から却下されてしまうような状態でした。

でも最近では、そうした作品がどんどん増えてきていますよね。役者も、むしろセクシュアルマイノリティを演じたいという積極的な人も多い。自分とは遠い役を演じることで評価されたりすることもありますからね。そのような背景の中で、『世界は僕らに気づかない』の脚本は、当初はゲイの男性の高校生の物語でしたが、内容をアップデートしないと、描いても意味がないと思い始めました。そこで、人種的ルーツの問題などを加えて物語を深めていったという流れですね。

──今、アップデートとおっしゃいましたが、社会からの抑圧や偏見への抵抗よりも、母と息子の葛藤や関係性に焦点を当てていることが、とても今日的だと思いました。ジェネレーションや環境などにより、親子とはいえ価値観も違うわけで、この作品で描かれているその溝や葛藤にはリアリティがありました。この親子の場合は、母親はフィリピンで生まれ育ち、自分たちが住む家の電気代さえ払えないにも関わらず、母国へ仕送りをしている。なぜそうまでするのか、日本で育った息子にはわからないわけですよね。もしかすると理屈ではわかっているかもしれないけど、感覚としてわからない。一方で息子は、日本で育って日本的な感覚を持っているのに、日本人としてみなされないようなところがある。そういったアイデンティティの葛藤も繊細に描かれていて、素晴らしいと思いました。息子だけでなく母親の状況への理解もとても深いと思いましたが、脚本を書くにあたって、どのように取材をしたのですか?
フィリピンパブで実際に働いている方々にはかなり話を聞きました。いきなりお店に行って話を伺うというのはハードルが高いので、まずは二世の子たちに会いました。フィリピンと日本のダブルの子たちと会っていく中で、「ウチのお母さん、パブで働いているよ」という感じで、パブに行くようになりました。行ってみたら、とても好意的に話をしてくださって。その中で法的にグレーな部分の話も聞くようになりました。

──グレーな事と言いますと?
例えば、映画の中でも描いていますが、偽装結婚の話などが日常会話の中で当たり前のように出てきたりとか。裏には反社会的勢力の方がいらっしゃるのかなと思うような話もありました。

僕も様々なお店でお酒を飲んだりカラオケをしながらいろいろお話を聞いていったのですが、段々と生の声が聞こえてくるわけですよ。なんとなく抱いていたフィリピン人の方々のイメージといえば、母国に仕送りして、しんどい暮らしをして、自己犠牲精神が強くて、でも実は国に帰ると結構な富を蓄えている、という都市伝説のようなものだったのですが、案外それが本当だったとわかってきました。すべての人々がそういうわけではありませんが、特にパブで働いている方は、稼いだお金を国に仕送りして、その仕送りを何十人もの家族──お父さんお母さんだけではなく、いとこやら姪やらまでもが頼りにしていたりする。フィリピンで家族がどういう生活をしているのかといえば、結構良いところに住んでいたりとか、日本にいる女性たちよりも全然良い暮らしをしていたりする。そうして、解像度の低いイメージだったものが一つずつ明確になっていき、レイナという人物像が徐々に出来上がっていきました。

──息子の純悟についてはどうですか?
二世の方々にもかなり話を聞きました。日本には今、およそ27万人のフィリピン人がいると言われており、その二世の子たちはもっとたくさんいらっしゃいます。友人の二世に話を聞くと、さらに友達を紹介してもらったりしてどんどんネットワークが広がり、ものすごい人数と出会い、実際にお話を伺えました。その中で、映画に反映できそうなエピソードを探していきました。

例えば、映画の中にお弁当のシーンがあります。回想の中で、幼少期の純悟がお弁当のフタを開けたら、友だちからからかわれてしまうシーン。保護者参観でお母さんがすごい派手な格好をしていて目立っちゃうといったエピソードは、二世の子たちから聞いていく中で出てきたものです。特にお弁当のくだりに関しては、多くの人が話していました。

料理はとてもわかりやすく文化を示すものだと思いますが、実際に僕がロケで使わせていただいたフィリピンパブを切り盛りしていた母娘の、娘の方から聞いた話だと、給食がない日にお弁当を開けたら、周りの子から気持ち悪いとか臭いとか言われてしまったり。フィリピンの“しょうゆ”は、日本の醤油とは違う独特な匂いがしたりするんですよね。

──魚醤ですね、きっと。
そうですね、ナンプラーみたいな。それが臭いと言われてしまったり。そうした文化が違うことによって心ない言葉を投げかけられてしまうエピソードが、聞けば聞くほど出てきました。

──そのお弁当や保護者参観のエピソードは、彼らにとっては傷として残っているのですね?
傷ですね。「やっぱり嫌だった」と言っていました。家に友だちを招いて誕生会をやったりしても、お母さんが作る料理がフィリピン料理だったりしたので、それが恥ずかしくて、だんだん友だちをお母さんと会わせないようになったりとか。それから、自分の悩みをお母さんにどう共有していいかわからなかったとおっしゃっていた方もいました。お母さんは難しい日本語がわからないから、自分の気持ちをどう説明していいかわからなかった、と。

映画の中では、行政関係の書類を書くために、漢字を読めないお母さんが息子に頼ってくるというエピソードも出てきます。息子としてはお母さんと距離を置きたいのに、お母さんは日本語がわからないのをいいことに、息子に甘えて絆を取り持とうとしていると感じて、それが嫌で拒否していた時期があったという話もありました。

──そうした移民の家族の問題ということでいえば、最近では『マイスモールランド』という作品がありましたが、ご覧になりました?
恥ずかしながら、まだ観れていないんです。

──あちらはもう少し社会問題を意識したアプローチをしていたのですが、飯塚さんはストレートに人間関係のドラマに寄っていて、社会問題は意図的に背景に描く程度にとどめていらしゃるように感じました。
僕は自分がトランスジェンダーであることから、これまでもトランスジェンダーに関わる物語を撮ってきたりしていますが、社会問題だったり法的な問題を前面に出さないようにしています。やっぱり物語を映画に落とし込んだ時に、誰でも観られるある意味での“パッケージ”にすることにより、むしろ問題に気づく人々が増える気がしているので。社会問題の切り口で語ると、食わず嫌いで食べてくれない人たちが出てくるかもしれませんから。

──LGBTQに関してはこの10年間で環境も変化し、理解も深まってきていると思いますが、それに伴って映画作りは楽になったのでしょうか?それとも相変わらず壁は高い?
壁はありますね。例えば今、僕が何かLGBT、セクシュアルマイノリティに関わる企画を立ち上げようとすると、そのことに悩んでいたり葛藤して苦しんでいる、という物語を求めらます。どちらかというと、ネガティブな物語を消費したいわけですね。「これは飯塚さんだから描けると思う」みたいな感じでプロデューサーや映画関係者から明確に言われますが、“必ずしもそうではない”というのが僕が言いたいところだし、描きたいところ。いまや、セクシュアルマイノリティであることを特別視しないというフェーズに入っていると思います。『世界は僕らに気づかない』もそうですが、特にセクシュアルマイノリティであることを特別視しているつもりはありません。ナチュラルに、背景として描いています。

もちろん、いろいろな作品があって良いと思いますし、政治的な問題をストレートに捉える作品があっても良いと思います。いろいろな表象がないと、バランスに欠いているなとも思います。セクシュアルマイノリティの登場人物が当たり前に出てきて、ごく当たり前に幸せに生きてきて、それはマジョリティと変わらずに恋をしたりしなかったり、結婚してみたいなと思ったり、それは要らないなと思ってみたり、思春期ならではの悩みを抱えてみたり、そんなことはなかったり。いろんなバリエーションがあって然るべきですが、セクシュアルマイノリティがちゃんと幸せになってごく当たり前に生きていく姿を描いていくところまでまだ辿り着いていないな、というのが今の時点で感じていることですね。

──この作品では、それをやったということですね。
そうですね。やりたかったことですね。それもマジョリティ側の持つストーリーテリングにマイノリティを登場させる形で。そうすることで、マジョリティ側の方々もマイノリティの存在を想像しやすくなると考えました。

──実際、この作品では、純悟の恋人の家族は最初から二人の関係を受け入れているし、飯塚さんの意思はすごく明確に最初から伝わってきたと思います。さらに、アセクシュアルの女性も登場しますが、その関係性にもリアリティがありました。現在、本当に何が起こっているかを表現したい、つまり実際に起こっている現状がこうなんだということを映画の中でも表現したいという意図があったのですね?
二つの側面があると思います。現実に起きている側面もあり、例えば僕が大学生や高校生から「セクシュアルマイノリティに関しての講演会をやってほしい」と呼ばれて、幼少期に感じた悩みや問題を話しても、彼らにはあまりピンと来ないんです。もう当たり前に受け入れていて、今さら何で問題を話しているの?と。もちろん、中には絶賛悩み中で僕と同じような心境だと言う子もいますが、そういった知識を当たり前に持っている子も増えてきています。身の回りにゲイがいて、アセクシュアルの子がいて、レズビアンの子がいて、それは当たり前だと言う若い子が、どんどん増えてきている。『世界は僕らに気づかない』で描いた高校の景色は、一つのリアリティであると思います。

一方で、理想という部分もあると思います。あのようにナチュラルに生きられることが理想だと僕が思い描いている部分もあり、まだまだ悩んでいたり、知識が浸透していない保守的な町で嫌な思いをしている子も実際にいます。そういう意味では、理想化している部分でもあるのかなと思ったりしますね。

──今の話で、グザヴィエ・ドラン監督が『マティアス&マキシム』という青春映画のインタビューで言っていたことを思い出しました。主人公の20代のゲイの青年は葛藤を抱える一方で、仲間の10代の妹の世代は同性愛は当たり前のように受け入れていて…
そこで描き分けがあるんですね。

──はい。ドランは29歳くらいの時にその作品を撮ったのですが、彼はずっとそうした葛藤を抱えて10代を生きてきたけど、今の10代にはそれがないことを知った時に、時代は変わったのだと感じたと言っていました。これは飯塚さんが感じた感覚と似ているのではないでしょうか?
そうですね、同じだと思います。その葛藤をもし今から描きたいのであれば、時代劇にするしかないですよ。でも、映画界のおじさんたちは未だに、セクシュアルマイノリティはこうだ、こう悩んでいる、という発想のもとに企画を考えるものだから、映画の中で(登場人物が)死んでしまったり不幸な目に遭ったり、ということになってしまう。おじさんたちの不幸な幻想に巻き込まないでくれ、僕たちはもっと普通に生きているよ、と感じます。

──そこにギャップがあるということですね。そういう意味でも本当に、この作品にはリアリティを感じました。この作品を作ったメンバーというか、関係者の中に年配の方はいらっしゃったり…?
いや、面倒くさいことを言うおじさんは一人もいませんでした(笑)。一概に全てのおじさんが悪いわけではないので、“おじさん”という言葉は比喩として用いますが(笑)。

──だからこそ出来た、というところもあるんですね。
そうです。もちろん、おじさんの感想も求めました。いろんな方に見てもらったほうがより良くなると思い、脚本を出来上がった段階で、いろいろな年代の方やルーツの方にお話を聞きました。

面白かったのは、年齢が高い方であればあるほど、「すごく複雑な設定だね、難しい話だね」と言うんです。その一方で、この映画を上映した海外の国では、ミックスのルーツは当たり前、性的マイノリティも当たり前、ダブルのマイノリティであることも当たり前なので、もう当たり前の話だし、複雑でも何でもない。日本では若い世代からも「すごい情報が多いね、複雑だね」と言われましたが、そうでもないぞと僕は思うんですよね。

──人種に関して言うと、日本は欧米の国々と比べると多民族国家ではない分、まだまだ移民問題などに対する意識は低いですよね。
そこで大事なのが、移民の文化は実は知られていないだけで、すでに日本に存在するということ。例えばフィリピンの方の多くが日本に入ってきたのは、もう30年近く前の話だったりします。それがあまり注目されてこなかったという面もあるので、そういう意味でも、今回取り上げるべきテーマであったかなと思います。

──フィリピンでも上映されたそうですが、どんな反応がありましたか?
フィリピン的なエピソードかもしれませんが、彼らは良い意味でも悪い意味でもルーズな部分があって、僕が劇場でQ&Aで登壇する日を間違って告知されていて、前日は満員だったのに、僕が行った日はスカスカだったんです。そのため僕がお話を聞くことができた人数も少なかったのですが、その中でも印象的だったのは、純悟が自分の夢を諦めて母親をある意味サポートしていくという選択に対して、「彼はフィリピンを選んだんだね、それが嬉しかった」という反応。純悟は、それまで自分は日本育ちの日本人で、頑なにフィリピンなんて関係ないとか、自分の中にあるフィリピン的なものを全部否定し排除してきたけれど、最終的にはフィリピンの生き方を少しは許容していきます。それを「嬉しかった」と受け取るフィリピンの観客がいたというのは、僕がフィリピンの方々にきちんと取材して、きちんと描けたからだと思えました。とても嬉しかったですね。

──純悟は、母親の立場を理解しようという姿勢になりますからね。もう一つお伺いしたいのは、今、映画界では「当事者」が演じるべきだという議論が大きくなっていますが、先ほどの話では、以前は同性愛者やトランスジェンダーの役を俳優が演じたがらなかったところ、今では積極的に演じたがる人もいる、ということでしたね。この「当事者」の問題についてはどう思いますか?
僕は、最終的には非当事者と当事者のどちらが演じても良いと思います。それは作品によって分ければ良い。当事者が演じた方が絶対に良いという場合と、そうではなくてもしっかり役にアプローチすれば演じられる場合も十分にあると思っています。いろいろ意見があるかもしれませんが、将来的にはどっちもアリになっていってほしいと思います。実際、今回の(純悟役の)堀家一希くんは当事者ではありません。

でも、今の流れをチャンスだと思っている側面もあります。僕の次の作品はトランスジェンダーの物語なのですが、芸能界に興味がある、もしくはお芝居の経験があるトランスジェンダーの方々を日本中から集めて、当事者のオーディションを行いました。これには明確な意図があり、トランスジェンダーの俳優には雇用のチャンスがあまりにも少なく、あまりにも不平等だと思ったから。僕自身もトランスジェンダーですし、周りにセクシュアルマイノリティの俳優は結構いますが、圧倒的に“はじかれて”きています。役を演じるチャンスがないから、経験を積むこともできない。経験を積むこともできないから、出世していく道もない。下手したら書類の段階ではじかれる。セクシュアルマイノリティだと分かった時点で、はじかれてしまうんです。

──偏見があるということですね。
はい。女子高校生役のオーディションにトランスジェンダーの女性がいても良いじゃないかと思うけど、書類の時点ではじかれてしまう。僕はそれは偏見だと思います。どんな女性像がそこにあっても良いじゃないかと思います。今まで日本人が抱いていたキャラクター像に、乏しさがある。なので、圧倒的に雇用の機会がなかったトランスジェンダーに対して平等に雇用を生み出したいし、道は開かれるべきだと思いました。

──雇用機会の問題を除けば、例えばトランスジェンダーの俳優しかトランスジェンダーの役を演じられないという思いは特にないということでしょうか?
簡単にそうとは言い切れません。雇用の問題だけではなく、表現の問題としても当事者が起用された方が良い場合もあるとは思っています。身体の特徴だったり、生きてきたルーツが違うので、感じてきたことも違うから、当事者が演じた方がリアルだったり、誤解のある表現が生まれにくいという面はあると思います。ただ、今までの映画全てが偏見に満ちた表現になっていたかと言うと、そうでもないです。僕の前作『フタリノセカイ』でも、トランスジェンダーを非当事者が演じています。

──上手くいっている作品とは?
僕が一番好きなのは『トランスアメリカ』(05年)。あの映画は、“圧倒的にトランスジェンダー”なんです。

男性から女性に移行して、「女性にしか見えないじゃん、どこからどう見ても女性だよ」という、僕らの言葉で言うところの“パス度が高い”トランスジェンダーの女性はたくさんいます。当事者が演じれば単純にトランスジェンダー的なものがそこに映るかと言えば、必ずしもそうではないと思う。また、当事者の中でも当事者意識が低く、自分以外のセクシュアリティやジェンダーアイデンティティに関して不寛容な方もいる。でも『トランスアメリカ』は、どこからどう見てもトランスジェンダー的なものが映っている。希望的にトランスジェンダー的を表現しているわけではなく、もうトランスジェンダーそのものでしかない。そういう可能性があるので、非当事者が絶対に演じてはいけないとするのはおかしいし、それはそれで可能性としてあると思います。なので、最終的には当事者が演じる場合も、当事者が演じない場合もどちらもあっていい。これが私の考えです。

──飯塚さんは映画監督として、トランスジェンダーであることで偏見にさらされた経験はありますか?
ありますよ、たくさん。日本の映画界はまだまだ男性中心の社会なので、その中でまず女性は生きづらく、ましてやセクシュアルマイノリティはもっと生きづらかったという背景があると思います。(自身がトランスジェンダーであることは)オープンにしていたので、映画界に入ってからも、現場でいじられることも沢山ありました。いわゆる男性の体育会系のノリの中でからかわれるとか、差別的なことを言われるのが割と日常茶飯事でした。なので別の監督の助監督として仕事をした時は、自分のセクシュアリティを隠していましたね。そのほうが断然働きやすかったので。隠すこともしんどかったけれども、隠さないと何か言われてしまうという状況がありましたから。

──その状況は今は変わってきていますか?
徐々に変わってきましたが、今は別の問題が起きてきていると思っています。トランスジェンダーとかセクシュアルマイノリティに関わる作品を作りたいので話を聞かせてくれとか、監修に入ってほしいと求められることが増えてきたのですが、当事者を一人立てておけばいいと、免罪符にされてしまいそうな側面があります。それでマジョリティ側である制作者が不勉強のまま制作にあたり、作ったらもう終わり。結局無関心のまま。こんなパターンは何度も目にしました。

それから、トランスジェンダーの話を聞きたいということで取材をされながら、踏み込んでほしくない領域に割と土足で踏み込まれたりすることもあります。信頼関係とかリスペクトがあれば、それは作品のためだからとお話ししますが、興味本位で茶化すような言われ方もします。トランスジェンダーとかセクシュアルマイノリティについての作品を作ろうとするフィルムメーカーたちなのに。正直、セクシュアルマイノリティをただエンターテインメントとして消費しようとしているだけなのだなと感じてしまうこともたくさんありますね。

──先ほど話に出た、偏見も少なくなりより自由になりつつある若い世代と、一緒に作品を作っていきたいという思いはありますか?
そうしたいですよね。やっぱり、時代は常にアップデートしていかないといけないし、先ほどはおじさんたちのことをある意味否定的に言いましたが、少し時間が経てば僕もその立場になってしまうので。作家として現実をきちんと描いていきたいとなった時には、逆に彼らに教えてもらったりしないとできないとも思います。まだギリギリ若手監督と言われる年齢だったので、これまでは年上と関わる時間が多かったのですが、これから下の世代が入ってくるとなったら、今度は僕が話を聞く番になってくるのかなと、常に思っています。

──価値観が異なる人たちが、相手の話を聴こうと聴く耳を持つようになることは、この映画の中でもとても大きなメッセージになっていますね。日本を含め世界で分断が進んでいると言われる今、価値観の違いが人々の溝を深めてしまう動きもあると思いますが、わからない世界に一歩踏み込んで意見の異なる人の話を聴くことは、歩み寄りの第一歩ですね。
それは意識していましたね。大テーマというか。僕がもともと映画をやりたいと思ったきっかけに、歩み寄れない違ったものを持つ他者がどこで妥協するか、ということがテーマとしてありました。個人的な話ですが、ケンカとか、誰かと衝突が起きることがすごく苦手で、どこで歩み寄れるか、どうしたら話ができるかを常日頃考えたい。だから、昔からそういうテーマの映画が好きです。今まで僕が作ってきた作品もそうですが、どの時点で歩み寄るかは、ずっと僕の映画の中のテーマであると思っているので、今回もまさにそうですね。異なる文化を持った親子が、どこでどう生きていくという結論を、後ろ向きではなく前向きに出していくところはこだわったところですね。

──撮影現場での自由度についてもお聞きしたいと思います。例えば撮影の現場でもインティマシーコーディネーターを入れるようになってきていますが、クリエイターとしては不自由な面も出てくるわけですよね。そういった制度化に関してはどう思いますか?
前進していくという意味では必要ではないかなと思います。僕も助監督として現場に参加していて、濡れ場があった時に、あまりにもルールがない中で不安を抱く瞬間はありました。どこかでルール化し、整備していかないと前進していかないものがあると思います。一方で、現場の中にルールだけ敷かれても、本質的にその必要性を理解している人間がどれだけいるかという問題もあると思ってます。何のためのルールなのか、何故それが必要か理解しないまま、ただルールだけを守る。これって意味あるのかな?とも思ったりする。“No”を言いづらい俳優の気持ちを本質的に理解したり、俳優たちが何に困ったりしているのかを知ることも感じることもないまま、ただルールを守るというのは果たしてどうなのだろうと思うこともあります。

アメリカのフィルムメーカーの友人たちに話を聞くと、監督も当たり前に俳優としての訓練を経験していることが多いです。実際に自分が経験してみると、俳優がどんなふうに感じるのかようやくわかる。これは僕も俳優に混じってワークショップなどを経験してわかったことで、やはり俳優と監督の間には深い溝があると感じています。

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『世界は僕らに気づかない』

群馬県太田市に住む高校生の純悟は、フィリピンパブに勤めるフィリピン人の母親を持つ。父親のことは母親から何も聞かされておらず、ただ毎月振り込まれる養育費だけが父親との繋がりである。純悟には恋人の優助がいるが、優助からパートナーシップを結ぶことを望まれても、自分の生い立ちが引け目となり、なかなか決断に踏み込めずにいた。そんなある日、母親のレイナが再婚したいと、恋人を家に連れて来る。見知らぬ男と一緒に暮らすことを嫌がった純悟は、実の父親を探すことにするのだが…。

出演/堀家一希、ガウ、篠原雅史、村山朋果、森下信浩、宮前隆行、田村菜穂、藤田あまね、鈴木咲莉、加藤亮佑、高野恭子、橘芳美、佐田佑慈、竹下かおり、小野孝弘、関幸治、長尾卓磨、岩谷健司
脚本・監督/飯塚花笑
エグゼクティブプロデューサー/本間憲、和田有啓
プロデューサー/菊地陽介、山田真史、飯塚花笑
協力プロデューサー/志尾睦子、佐久間由香里
製作/レプロエンタテインメント
2022年/日本/カラー/シネマスコープ/5.1ch/PG12/112分

日本公開/2023年1月13日(金)新宿シネマカリテ、Bunkamuraル・シネマほか全国公開
配給/Atemo
©「世界は僕らに気づかない」製作委員会