Column

2022.02.16 21:00

【インタビュー】『国境の夜想曲』ジャンフランコ・ロージ監督が3年間を捧げた、紛争地に暮らす人々の詩

  • Atsuko Tatsuta

ベネチア国際映画祭で3冠を受賞したドキュメンタリー映画の名匠ジャンフランコ・ロージ監督最新作『国境の夜想曲』が公開されました。

『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』(13年)でベネチア国際映画祭金獅子賞、『海は燃えている〜イタリア最南端の小さな島~』(16年)でベルリン国際映画祭金熊賞と、2作連続で最高峰の国際映画祭を制した名匠ジャンフランコ・ロージ。『国境の夜想曲』はそのロージ監督が3年以上の歳月をかけて、イラク、クルディスタン、シリア、レバノンの国境地帯で撮影した力作です。

2001年のアメリカ同時多発テロ、2010年のアラブの春に端を発し、最近ではアメリカのアフガニスタンからの撤退──侵略、圧政、テロリズムにより、今に至るまで数多くの人々が犠牲になっている中東の紛争地帯。痛みに満ちた土地と人々を、ロージ監督はどのようにカメラに収めたのか。インタビューやナレーション、テロップなど通常のドキュメンタリー映画で使用される手法を用いず、静寂さ満ちた美しい映像が語りかけてくるものとは何か?

ドキュメンタリーとフィクションの境をも超越した独自の映画作法で唯一無二の境地を開拓し続けるロージ監督に、分断された世界に本作を送り出した意図を訊きました。

──『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』は、ローマを取り巻く環状線を境に、内側と外側に暮らす人々を見つめた作品でした。『海は燃えている〜イタリア最南端の小さな島~』は、難民にとってヨーロッパ側への入り口となっている小さな島にカメラを据え、そこに住む人々と通り過ぎていく難民を映し出しました。本作は、この「境界線」というテーマを押し進め、中東の紛争地帯のまさに“国境”の風景と人々を撮っています。映像作家として、ご自身は成熟を実感していますか?「境界線」というテーマを追い続ける理由は?
おっしゃるように、この映画は私にとってある到達地点という気がしています。映画を作る度に、“これが最初で最後の映画だ”と言っているのですがね。(初監督作品の中編)『Boatman』(93年)から次の映画を撮るまでに10年以上かかりました。その後はもう少し間隔は短くなりましたが。この『国境の夜想曲』を撮り始めた時も、“これが私の最後の映画になる”と言っていました。というのは、本当に自分のすべてを捧げて、3年間をこの地域(中東)で過ごしたのですが、それは私自身の心の旅でもありました。悲痛な旅でした。時々振り返り、私の人生は7本の映画でしかないのか、と思うこともあります。

でも、7本の映画には私の人生が詰まっているとも言えるのです。どの作品にも親密なストーリーを見つける要素が入っていますが、毎回、フィクションとドキュメンタリーを分かつ、非常に細い境界線を壊そうという挑戦をしています。私は、映画を作る時に決して演出はしません。予め脚本も用意しません。目の前で起こっていることを撮っています。そういう瞬間に至るまでには、(カメラを回さず)長い時間そこで過ごさなければなりません。『国境の夜想曲』の製作が終わる頃には、自分の中で深い変化を感じました。PTSDになった気がしました。スクリーンには映っていませんが、私の中に残っている、とても重いものがあります。

確かに私のすべての映画に、物理的にあるいは文化的に見えない「境界線」が存在します。ですが、この『国境の夜想曲』を撮った後には、歴史が作り上げた境界線である「国境」が見えなくなって欲しいと、私は強く思いました。なので境界線を見る時には、記憶というものはとても重要です。思い出は、いつも蓄積です。今回映画に出てきた人々は、アイデンティティがキャンセルされている人々です。この映画に出てくる人々の過去は、ものすごく強烈です。彼らの人生は進んでいきますが、将来は停止している。彼らの未来はどうなるのか、見えないのです。

私にとって大事なことは、見ているもの、知っているものを越えるということ。単なるルポルタージュを越えたい。ルポルタージュを越えたところから、本当の意味で親密なストーリーが始まると思っています。私自身、精神的にも物理的にもまだ行ったことがないところに行きたく、また観客を、まだ見ぬ場所へ連れていきたいのです。

この映画は、空虚さや喪失についての映画だと思っています。これは、私が中東で体験したことを反映しています。私たちの目には映っているのに、見えていないもの。それを、カメラが捉えることが大切だと思っています。そういうことも含めて、私はこの映画を劇場の大きなスクリーンで観て欲しいと思っています。コロナ禍では小さな画面で観るしかないかもしれません。でも、観客の方も暗闇に包まれて、一緒に旅をすることが大切な作品なのです。

──国境地帯での撮影で気がついたもの、見えてきたものは何ですか?
リサーチに長い時間がかかりました。そこに身をおくことで、新しいリアリティが見えてきました。イラク、シリア、レバノン、クルディスタンと広い地域を旅し、“絶対的なもの”を見つけたいと思いました。なので最初の数ヶ月はカメラを持たず旅しながら、この地域のアイデンティティをはっきりと示してくれるものを探しました。そこで出会った人を、映そうと思いました。

それは私の精神的な空間です。この「精神的な空間」というのは、実際には国境で隔たれているけれど、それをとっぱらった、ある種匿名の空間ということです。この映画は暗闇から始まり、光が段々と見えてくるという構造にしたいと思いました。暗闇では、蛇なのか木の枝なのかわかりません。そういう意味では、暗闇から始めることは守り(プロテクション)であり、メタファーでもあります。

──なぜドキュメンタリーという手段で表現しているのですか?
ドキュメンタリーとフィクションを区別して考えていません。私にとっては、「シネマ」という言葉しかありません。そのシネマ(映画)において、なにが大切かというと視点です。

私にとっての視点とは、倫理的なものです。この映画は、始まりから次の始まりへと移ります。人生が目の前で展開するのです。そしてそれを観察するだけでなく、そこからストーリーを語ります。でも情報を与えるということではありません。情報はすでに溢れていますからね。

私は親密なものを感じたいんです。命や人生を感じたいんです。それが私が常に挑戦していること。そのためには、時間をかける必要があります。なぜなら、深い意味がある「空間」に出会い、さらにそこで(撮るべき)人々に出会わなければならないからです。

第77回ベネチア映画祭にて Photo by Andrea Avezz / ASAC

私にとって大事な3つの言葉は、トランスフォーメーション(変容)、情報の抽出、ストラクチャー(構造)です。フレームを決める時、その中に既にストーリーがなければいけません。日本には俳人で(松尾)芭蕉という人がいますね。非常に短い言葉で物事を表現しますよね。

観察が正確であればあるほど、観察はユニークになりますが、観察するだけでは足りません。イメージのメタファーを作らなければなりません。なので、そのイメージを他のものに変容させなければならないわけです。ということで、ストーリーを語るときに大事になってくるのは、空間における沈黙です。

フレームを決めてそれをじっくり観察しますが、その時に昇華するものが欲しい。美しく撮る必要はありません。そのイメージを永遠にするという意味での昇華。それこそが、パゾリーニが言った「真実のきらめき」なのです。ドキュメンタリーであれフィクションであれ、私の映画表現において大切なのは、「喪失」です。そのフレームの中には、「喪失」も含まれなければなりません。

ベルナルド・ベルトルッチ監督が私の『海は燃えている』を観て、「この映画が大好きだ。なぜなら、ここには映っていないストーリーも含まれているから」と言ってくれたのですが、これを聞いて私は、ハッとしました。まさに、私にとって完璧なフレームとは、その前に起こったこと、その後に起こることも含まれている画だからです。目の前にあるものだけでなく、“背後”にあるものも、フレームには入っていなければならないのです。なので私は、雲も一緒に撮ります。私にとって雲は、ギリシャ悲劇におけるコーラスのようなものです。それに、曇っていると、360度好きなところから一番良いフレームを探すことができますしね。

──世界で紛争が起こる理由をどう捉えていますか?
その質問には、ローマ教皇の方が上手く答えられるのではないでしょうか。人類の歴史に関する問題ですから。

この映画について言えることは、戦争を見せたくなかったということですね。確かに私は、紛争のある場所にいました。爆撃が起こる中で撮影していましたが、その戦いを撮影することに興味がありませんでした。戦争は戦略の妥協だと思います。実際の暴力性は、爆撃が起こっている数キロ先の人々の生活の中にある。私の映画において、戦争は遠くに響くこだまのようなものです。ですがその衝撃波は長く、その戦争の結果は、はるか遠くに住んでいる人々の日常生活まで響いてきます。

この映画は紛争について語っていますが、戦闘を直接映さないのは、人々の痛みに近づきたいと思ったからです。未来が見えない人々。そこに焦点を当てました。彼らの運命の悲劇、私たちが責任を負うべき歴史の裏切り。なので最後は、14歳の少年アリのクロースアップで終わっているのです。彼の顔からは、停止した未来を感じていることが読み取れるでしょう。

──映画のテーマは、どんな時に見出すのでしょうか?
それぞれの作品によって違います。これも出会いです。それぞれの映画には、異なるインスピレーション源があります。インドでも、アメリカの砂漠でも、メキシコでも……。『国境の夜想曲』においては、『海は燃えている』を撮った後に、海を渡ってきた難民たちの側に移って、彼らが逃げ出してきた現実を観る必要を感じました。私にとってそれは必然でした。アイデアというのは、来たり来なかったりするのですが、重要なのは、その題材に私が深い部分で突き動かされているかということです。非常に親密なものを感じなければいけないんです。自分の中の真実を見出した時、人生の3年をかけて映画を作ろうという気になるのです。

前もって脚本を書かないのも、その場に行って「空間」に出会い、“絶対的なもの”を見つけることが重要だから。脚本を書いたとしても2、3ページ。最初に脚本を書いてしまうと、それがアジェンダ(目的)になってしまい、それを見せることが優先されてしまうからです。今、私たちが目にするドキュメンタリーの多くは、撮影する前に脚本が書き込まれたものがほとんどで、アジェンダを持っています。見せたい論理が先にある。私は、そういうドキュメンタリーのことを、「説明して、文句を言う映画」と呼んでいます。例えば、ある犠牲者がいるとすると、なぜ彼あるいは彼女が犠牲になったのか、その答えを探す、といったものです。

一緒に『El Sicario, Room 164』という作品を撮った私の師匠のチャーリー・ボーデンは、「ストーリーを書くのなら、マッチ箱の裏に走り書きするようなものでなければいけない」とよく言っていました。俳句みたいに、簡潔なもの。それ以上書くと、大きな嘘が始まるのです。また、私は撮影する時に、被写体に対してインタビューはしません。なぜなら、私がなにか質問したら、彼らは答えなければなりませんからね。し始めたら100の質問をしなければならないし、もっと言えば、それでも十分ではないのです。

それと、このエリアはとても複雑です。この地域で3年過ごしました。理解しようとしました。宗教的な問題とかISISとか、西洋諸国との関係とか、ものすごく複雑なのでそれを映像で描くには、20時間あっても足りないでしょう。なので、俳句のように簡潔に表現したいと思いました。

──カメラを持たない旅の間は、どんなことをするのですか?人々の信頼はどのようにして得るのでしょうか?
特別なことはしません。地図に、私が出会ったいろいろなストーリーを書き留めていますが、それが私が先ほど言った“絶対的なもの”です。この国境地域の歴史において、悲劇が起こった土地でもあります。何ヶ月も旅をしてそうした場所を見つけ、その後、そこに生きる人々の物語に出会います。

この映画の中に出てきた人たちとの出会いは、すべて偶然です。バイクに乗っている男性は、バグダッドから戻ってきて、南に行くところでした。バスラという町ですが、イラン・イラク戦争のときに300万人の人が亡くなった場所です。この地域出身のISISの兵士は沢山います。私はずっと車で旅をしていたのですが、ライフルを持ってバイクに乗った彼が目に飛び込んできました。彼の顔つきや座り方が、私の心を打ちました。鳥のように見えました。撮影する時はいつも助手と一緒なのですが、助手に引き返してもらい、彼に話しかけました。通訳を介してですけれどね。

彼は自分のことをハンターだと言いました。夜に沼地で漁をしている、と。夜になると石油の炎が上がるので、その光を使って、鳥を撃つのだそうですが、とても面白い話だと思いました。彼は私たちをお茶に招待してくれたので、彼の家に行きました。電話番号を交換して、「また戻って来て、君を撮影するよ」と言って別れました。その6〜8月後に、彼の家に行くと、彼はまるで長年の友人のように強く抱きしめてくれました。彼が「君は、本当に僕の話を伝えたいんだね」と言って、すぐに心を開いてくれました。2ヶ月くらいそこに滞在し、彼の行くところについて回りました。非常に危険な地域なので、2回ほど誘拐されかかりましたよ。

彼の野鳥狩りにもついて行きました。その時は鳥はまったくおらず、彼はずっと待ち続けていたのですが、私はその“永遠の待ち”を撮りました。なぜなら、“敵を待つ”彼こそ、私の映画のメタファーだから。

その場所は異次元のような場所でした。月や太陽が3つくらいあるようで、まるで火星にいるような。彼が、この世の中で生き延びた最後の生存者のように見えました。彼の背景には、戦闘のエコーが鳴り響いていました。映画のそのシーンではライフルの音がしますが、あれは本物の銃声です。だからあのシーンは、とてもパワフルなのです。

地図に記したいろいろな場所で会った人たちは、6、7人のみです。私は何度も彼らの元に立ち戻りました。行く時は、3日とか短期ではなく、数ヶ月も滞在します。行っては撮り、行っては撮り、ということを繰り返していたので、彼らもだんだんと私を信頼してくれるようになり、自分のストーリーをぜひ伝えて欲しいと思ってくれるほどの関係が出来てきました。

こうしたストーリーは、“完全”になるまでに、時には3年かかることもあります。今回、最初に出会ったストーリーは、携帯電話の物語です。クルディスタンのヤジディ族のコミュニティに行ったのですが、そこで出会った女性たちは、ISISに誘拐され性奴隷にされた経験がありました。私に話してくれたのは、その中でもたったひとりでした。顔は出ていませんが、彼女の話はとても悲痛なものでした。そこでは母親を亡くした孤児たちにも出会いました。子どもたちが絵を描いているシーンは、そこで撮ったものです。

シンジャールという町を撮っていたある日の午後、若い男性が私のところにやって来ました。ちょうどISISとの戦闘が終わったばかりのひどい状態だったので、町には旅行客などは誰もいませんでした。なので私が、彼が久しぶりに見た旅行客だったので、話しかけてきたんです。彼の若い妻とその家族が2年前にISISに誘拐されたと話してくれました。持っているものは唯一、妻が助けを求める声が録音されていた携帯電話。彼が家に招いてくれて、その携帯に残されたメッセージを全部聞かせてくれました。それをすべて撮影しました。何を言っているのかわかりませんでしたが、助けを求めている切実な叫びであることはわかったので、撮影しました。その後3年間、その地域には6、7回立ち戻って、この悲劇をどう撮ろうか考えました。私は彼を撮影したくなかったし、彼も恐れから撮られたがりませんでした。彼と出会ってから3年後、最後に行った時に、彼は私に、再婚して新しい子どもが生まれたことを報告しました。そして携帯に残っている妻の話はもう過去のことだからと、忘れたがっていました。

彼は、声を残した元妻の母親がISISから解放されて、ドイツのシュトゥットガルトに住んでいると教えてくれて、その携帯も私にくれました。ローマに戻ってからその母親に連絡をとって、娘の声が残っている携帯があることを告げると、シュトゥットガルトで私と会うことを許諾してくれました。そして雪の降る日に、彼女が住むアパートメントに行きました。私の助手と通訳と一緒に1日過ごしたのですが、彼女は大変悲惨な話をしてくれました。

誘拐された後、彼女は娘の前で虐待され、娘も母親の前で犯されました。彼女は、どのようにして逃げたのかなど、いろいろな話をしてくれましたが、私はとても撮影できませんでした。日も暮れて私たちが帰ろうとすると、その母親は「あなたは私を全然撮らなかったけれど、撮影するために来たんじゃないの?」と言いました。「娘の声が入っている携帯が欲しい」とも。

その時私は、そのアパートの中に、バグダッドで見たのと同じような毛布があることに気づきました。そこで、三脚にカメラを立てて、その前に母親に座ってもらい、娘の声を聞いている姿を撮影しました。娘の声が流れていきます。3年前に私が出会った絶望的なこの声が、3年を経て、母親に出会ったのです。母親の目からはひと粒の涙が流れました。その瞬間、私はカメラを止めました。それ以上必要ないと思いました。

今この話をしたのは、3年かかってひとつのストーリーが完結したということをお伝えしたかったから。一瞬ですが、それはあまりにも強烈で痛ましく、まさに人生が凝縮された瞬間がそこにありました。

──今の監督の説明を聞いて、あの船にのった青年のシーンはバスラだったと初めてわかりました。この映画ではそういう説明を全部省いていますよね。具体的な地名も説明しない、その意図は?
先ほど申し上げたように、国境は人と人を分断します。非常に細いラインですが、それは生と死を分かつものでもあります。このストーリーを語っているうちに、私にとって国境は、関係なくなってきました。それがイランで起こっていようと、クルディスタンで起こっていようと、関係ない。私にとってそれがひとつの世界になっていきました。

この映画における挑戦は、国境というのをなくす、ということでもあります。この地域の国境というのは、1960年代に西側の国が勝手に引いたものです。人々の文化に関係なく、勝手に引かれました。そこにある痛みや哀しみは、すべて普遍的なもので、私はこの映画を、普遍的なものにしたかった。先ほど話した母親の痛みも、シリアであれ、イランであれ、アフガニスタンであれ、変わりません。戦争があり、人々が痛みを抱えていることは、世界中どこでも変わらないのです。また、これはクルディスタン、これはバスラ…最初に明示したら、もっと混乱を招くとも思いました。

だいたい私にとって、場所がどこであるかは意味がないんです。私が撮ってきたものは、メンタルなスペースだと思っています。精神的な風景。心理的な地理的な、心の風景。そこに描かれた痛みは、ある種の典型例であったと思います。国境をなくす、というのは非常に考えさせられる大きな課題でもあったし、観る人にとって大変だとも思いますが、そこに作られる人々の連結を見せるのが、今回のチャレンジでもありました。

この映画は兵士から始まりますが、これもまた、映画全体のメタファーになっています。朝、兵士が訓練しているホッ、ホッという声が聴こえます。このトレーニングを撮る許可をもらい、朝5時にはそこに居ました。素晴らしい光がありました。雨が降った直後で、そこを兵士が走っていました。兵士たちがカメラに近づいてくると、ホッという声が聴こえました。私は、それが戦争の叫びだと思いました。撮影している時は、とても嫌な声だと思いましたし、私の撮影を邪魔しているのかとも思いました。でも、後でこの映像を見直したときに、戦争の叫びだと気がつきました。その声はどんどん遠のいていき、そして遠のいたかと思うと、また近づいてきます。これ自体が、この中東エリアのメタファーでもあるのです。戦争の叫びが聴こえなくなってきたなと思うと、また近づいてくる。終わったと思うとまた戦争が起こる。その繰り返し。

この映画では、息子を失って悲しんでいる母親たちも映し出します。息子を失って悲しんでいる母親の姿は、世界共通です。魚を獲っていた少年はアリという名前なのですが、彼は一言も喋らず、沈黙しています。彼の沈黙は、彼の痛みを表しています。それもユニバーサルなものです。紛争地帯にいる子どもたちは、戦争の痛みを抱えて、未来は見えない。それは普遍的です。

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『国境の夜想曲』(原題:Notturno)

監督・撮影・音響/ジャンフランコ・ロージ
イタリア・フランス・ドイツ/2020年/104分/アメリカンビスタ(1.85:1)/アラビア語・クルド語

日本公開/2022年2月11日(金・祝)より、Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次ロードショー
配給/ビターズ・エンド
公式サイト
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