Column

2021.03.10 21:00

【単独インタビュー】『窮鼠はチーズの夢を見る』の”作り方”にある行定勲監督の思想

  • Atsuko Tatsuta

日本を代表する映画監督・行定勲監督が描いた新たなる恋の物語『窮鼠はチーズの夢を見る』。

今ヶ瀬渉(成田凌)、大伴恭一(大倉忠義)

学生時代から受け身の恋愛を繰り返してきた大伴恭一(大倉忠義)は、結婚しているにも関わらず、不埒な恋に戯れていた。そんなある日、大学時代の後輩で今は探偵事務所で働く今ヶ瀬渉(成田凌)が訪ねてくる。ずっと恭一にあこがれてきた今ヶ瀬は、不倫の証拠を盾に、突然、思いを打ち明ける。戸惑いを隠せない恭一だったが、やがてその一途な思いに心が揺らぎ始める──。

人気漫画家・水城せとなの傑作コミック「窮鼠はチーズの夢を見る」と「俎上の鯉は二度跳ねる」を原作とする本作は、二人の男性の出会いを巡る、人を好きになることの美しさや純粋さを繊細に描き出した珠玉のラブストーリーです。主演の大伴恭一役に大倉忠義、今ヶ瀬渉役に成田凌という人気俳優の共演も注目を浴びました。

新型コロナウイルス感染拡大を受けての延期を経て、2020年9月11日(金)に公開されるや否や話題を呼び、ロングランヒットした本作。日本国内のみならず、台湾や香港、マカオ、韓国、タイなどのアジア諸国でも上映が決定し、国を超えて広く愛される作品となりました。

未公開シーンやメイキング映像などの豪華特典映像も収録されたBlu-ray&DVD発売に際して、行定勲監督がインタビューに応じてくれました。

行定勲監督

──『窮鼠はチーズの夢を見る』は、もともとは去年(2020年)の6月が公開予定でしたね。コロナ禍による緊急事態宣言により映画館が休業したことにより、公開が延期になったわけですが、去年の今頃はもう宣伝準備期間に入っていた頃。もう1年になりますね。
2020年については「まるで無かったような1年」、「空白の1年」という人が多いですが、僕は逆で、『劇場』の案件から始まって(※2020年4月に公開される予定だった『劇場』は、公開延期を経て7月にAmazonプライム・ビデオ配信と劇場での同時公開となった)、2本の映画を公開し、得ることも多かったですね。社会を俯瞰して見られたというか(笑)。映画界でも“配信は敵、映画館を守らなければならない”とか言っている方もいましたけど、結局それもおざなりになって、なんだかんだ言ってコロナの様子にみんな怯えていただけで、半年もすればもう”Netflix、Netflix”って言い始めたしね。

世界の作品を観てみると、最近では『シカゴ7裁判』が一番好きだったんですよ。素晴らしかった。あれは当初パラマウントが普通に劇場公開するはずでしたが、コロナの状況から断念して、どうしても昨年中に公開することに拘った製作者サイドはNetflixで配信することになったと聞きました。僕の『劇場』と同じような感じでしょうけど、監督の希望でいくつかのシアターで公開はされたみたいで。これからの時代は映画を作る時に、概念みたいなものを取っ払らわないと駄目。僕らは本来、概念に捕まらないものを作っていかなければならないはず。だから『シカゴ7裁判』を観てすごく良いと思ったし、テレビで観ているのに終わった後にスタンディングオベーションで拍手してしまいました。

嬉しかったのは、『窮鼠はチーズの夢を見る』を公開した時、SNSをやっていて初めてこれだけの反響を見れたこと。ある男の人の感想では「映画において描かれる恋愛は男同士の方が今はピュアだね。男女の恋愛の方がちょっと邪でピュアじゃない」というのが面白かった。映画の題材としては男女の映画は基本的に不倫とか──僕も心が痛いところですけど『ナラタージュ』のような叶わぬ恋みたいなものが、センセーショナルな話題を惹きつける。でもあれは、そう思い込むのが概念なんですよね。でも『窮鼠』の原作を読んでちょっとやられたなというか、男同士の恋愛はこんなにピュアなのか、そうか、そうかもしれないと思った。根本的に自分自身の概念を覆してしまうようなものに、真剣に向き合わなきゃいけなくなる。

確かに恋愛って、「君のこと好きだよ」って言って、戸惑いながらもそれを受け入れて、いつしか「あ〜疲れたな〜」って疲弊したり、本当に好きなのかって思ったりしてしまうものだけど、本当はそれだけじゃなくて、憎しみのような感情も混じってくるくらい執着するのも愛の実態だと思う。相手のことが嫌いなのかもしれないと思ったり、何度も突き放したりするけど、やっぱり別れられないみたいな関係性だったり。

──愛憎といえば『劇場』にもつながりますが、今年公開した2本でご自身の中で革新的だったのは、やはり『窮鼠』なのですか?
そうかもしれませんね。僕にとって『窮鼠』を作るのは、脅威でもありました。自分が知らないものを探らなければならず、自分も映画とともに考え、自分の性的指向はそうではないけど、(男同士の恋愛は)”なくはないんだ、わかるな”という境地にまで行く。恭一がどういう境地にいたのか、映画を通じて追体験している感じだった。『劇場』の方は、あれはもう愛憎ですよね。

──『劇場』では、ご自身を投影しているところはありましたか?
ものすごくあるし、シンパシーを感じていた。だから観客に関しては、間口は非常に狭い映画だという認識だった。それまで、”わかる人にはわかる映画”を本当は作っちゃいけないという概念を、映画監督としてどこか自分の中に持っていたんですよね。全部の心境がわからなくとも、映画としては面白いと思ったけど、『劇場』は初めて、わかる人にわかればいいやと思って作った。

『窮鼠』の方が、本当はBLというジャンルにおいてはわかる人にわかればいい作品というはずなんですけど、むしろ普遍的なものを描いていたかもしれない。僕自身、”わかる”というところに気持ちも行っていたし、わかって欲しい、届いて欲しいという気持ちにつながりました。

メイキング写真より

──『窮鼠』は、行定監督にとっては男性の観客の声の方が響いたのですか?
僕の中では、そうですね。もともとは女性が、男性同士の話を客観的に涙して見ていながらも、心情としては今ヶ瀬に感情移入するもの。で、むしろああいうピュアな物語は、最近の男女間では成立しないんじゃないかな。話題になる恋愛映画のほとんどが、恋愛のオーソドックスな出会いから別れまでを、演出で上手く見せている映画なんだろうなという気がしているのですが。それを男同士にすることで、今の時代にこういうピュアな向き合い方ってあるんだな、と。純粋さだけじゃなく憎しみみたいなものも、今ヶ瀬から恭一に対してはある。男がズルさを持ち合わせているのは、従来の男女の関係にあったかもしれないけど、でも今の男女の関係はもっと体裁が立っているというか、特別な状況に陥らないとそうはならない。

──公開当初は、大倉さんや成田さんファンの観客も多かったと思いますが、ロングラン上映する中で、異なる客層に本作が見いだされたという側面もありますか?
あるかもしれないですね。本作の配信が始まって以降は、男の人たちが多く観ているみたいです。劇場に行かなかった方たちがずっと気にはしていて、観に行こうよって言われても「俺はいいよ」って言っていた人たちが観てみたら、「なんだ、想像していたのと違うじゃん」「これはラブストーリーだね」という反応が多く聞こえてきました。

──配信も、観客層の広がりという意味では、作品や映画監督にとって悪くないプラットフォームですよね。
映画として生まれて、正解も不正解もない状況に世の中がなったところで、むしろタガが外れた。作品がまず作られることが大事で、どんな風にでも観客が観られることが大事。

ウェルメイドなメジャー作品はテレビやCMの監督や演出家たちが完全に占めていて、個性を持った映画監督たちは締め出しを食らっていると言ってもいい状況です。テレビという舞台で観客に届けることを熟知した監督たちの力量はすごいわけで、(配信プラットフォームでは)そうした作品と僕らは並べられる。世界の作品と並べられたりもする。そういう意味でいうと、配信は異種格闘技戦みたいなところがあるから、そこでちゃんと記憶に残るものを作らなければならない。だから『窮鼠』なんかはどちらかと言えばちょっと逸脱しているというか、ちょっと毛色が違うものだけに、”どうなのかな…”と思っていた観客が触れる機会になる。機会が増えることは、次に繋がる糧になると思います。

メイキング写真より

──特典映像や劇場公開時のトークでもおっしゃっていた、「『窮鼠』で説明的なものはカットした」というのは、とても映画的なアプローチだと思いました。そうした作り方は配信でも変わらないのですか?
変わらない気がしますね。おそらく作り方は変わらないだろうと思いながらも、世の中の流れとかに翻弄されたいと思うところもあり。自分はこうでないといけないとずっと思い続けてきたのだけど、結局この世の中が言っていることとは、不易流行というかね。不易と流行の両方が残ってないと世の中の記憶にならないよ、と松尾芭蕉は言っているんだと思いますが、確かにそうだな、と。変わらないものと、変わっていくものが同時にあるという。

──特典映像には、今ヶ瀬と再会した恭一が「もうお前はいらない」と言った後のシーンが含まれています。とても素晴らしいシーンですが、あそこをカットするのには勇気が必要だったのでは?

最初からそこが論点だったんですよね。そのままの流れで二人はもう抱き合うぐらいで良いのではというような意見もあったのですが、脚本家と僕はもっと(ふたりの関係を)罪深いものにしたいと思っちゃったんですよ。映画って面白いなと思うのは、あのシーンを繋いだ長いものを観てみたんですけど、そうすると、彼らの行く末を応援しちゃうんですよね。そうすると、たまきに偽って二人が密会するというニュアンスが全く要らなくなって。結局、別れたんだけどまたすぐ戻っちゃうというだけの身勝手さが出てしまう。その身勝手さを取るか、そうではなく、結局人は人を傷つけて、大喧嘩してあんなに離れたのにまたくっついてまた大喧嘩して別れるぐらいにしないと。両方取りはないよね、と。やっぱり、恭一が待つというところまでやっと行ったのに今ヶ瀬は戻ってこないかもしれないというのを取るか、その身勝手さを取るか──そのどちらかだよねとなった時に、今のエンディングを取りました。

確かにあのカットした部分はすごく良くて、脚本家もその現場を見に来ていたので、「どう思う?」って聞いたら、「これを活かすんだとしたら、最後はもっと大きな喧嘩をして、あっけなく別れるとか、自分たちの道を選んだのに、どっちかがちょっと目を離したうちに車かなんかにはねられてあっけなく死んで終わるとか、なんかそんなことになっちゃわないと終われない気がします」と。その通りだと思いました。恭一がたまきの面倒を見なきゃいけないという気持ちが結婚までつながっていったんだけど、それが本心じゃなかったということを、ちゃんと彼女に別れを告げて待つという選択が出来た唯一の相手が今ヶ瀬だという方が、原作をちゃんと映画として完成させるには合っているのではないかと思ったんです。そういうところから、あのカットした場面はもともとシナリオにはなかった。だけど、(恭一の)気持ちを作るために今ヶ瀬が去ろうとしたのを捕まえて…その先まで加えて撮りました。そこに生まれた二人のあふれる感情があったんだけど、それはあえて見せずに、恭一はそれを偽って彼女との生活をまだ続けようとしていて、その裏で二人は付き合っているという。そんな風に恭一と今ヶ瀬を罪深く描こうと思ったんです。

──未公開シーンに関していえば、さとうほなみさんの橋の上でのシーンもありましたよね。
1シーンありますね。そもそもあれは橋の場面かラブホテルの場面かどっちかを、と脚本家が言っていたんで。両方撮って、どっちのシーンを選択するかって話だったんですよね。両方良いんだけど、やっぱり彼女はあっけなく屈した方が良いだろう、と。彼女に良い役割を持たせて終わるというよりは、「呆れる」と言っていなくなられた方が、二人の在り方としては良い、という選択でした。

夏生(さとうほなみ)

──特典映像に入っているもの以外にカットしたシーンあるんですか?
ほとんど切っていないんですよ。微妙にセリフを省いたりはしているかもしれないけど、基本的には先ほど話した(再会の)シーンが一番大きいです。ほぼ脚本通りなんです。今回は。普通そういうことはないんですけど。

──今回、脚本からブレなかったというのには何か理由があるんですか?
僕がね…そもそもが、自分の話ではないから、この二人の道が決まっている中で選択していくしか無かったんですよね。だから本当に追体験しているというか、見ながら考えているというか。そういう意味でブレはなかったし、クランクイン前に原作の水城さんとも、脚本の堀泉さんとも一緒に何回か会ったりして。始めに完全に全員に納得度があったわけではないかもしれないけど、そこを僕が見極めていくという役割をさせてくれということで、そういう意味では選択肢を広げた形のシナリオで、それを確固たる道にしていったという感じですかね。編集も含めて。最終的に編集で考えなければならないことも多かったので。

──ここ数年、LGBTQやダイバーシティについては映画界においても多くのトピックスがありますよね。
僕はそもそも『GO』を撮った時にそういう覚悟ができたというか。要するに、映画を作ることは理解すること。僕は大島渚監督が昔言った言葉に非常に感化されていて、「映画の中に思想はいらない。作り方に思想がいるんだ」と。その通りだと思っていて、”作り方”に思想が要る。思想というのは考え方、その映画をどう作ったかということ。プロセスとも言いかえられるかもしれないけど、何をきっかけにこれが出来ようとしているか。

映画は社会を鑑みて、今の社会に呼応するように生まれていく。例えば『シカゴ7裁判』みたいな作品が出てくるのは、警官による黒人虐待事件が起こっているから。そういった差別は、今始まったばかりではなく昔からあって、でもまさにそれが鏡に映っている。最終的に着地するのは人命であり、生きていくこと。それを考えよう、というのが最後に提示される。

実は(キャスティングのために)この『窮鼠はチーズの夢を見る』の脚本を持っていろんな俳優事務所に行って、「興味ありますか?」と聞いて回りました。その中で「なんでもっとそういう人たちの生きづらさを描かないのか」と言う人はいた。「ゲイである生きづらさ」や「周囲の心配」とか。もしくは、「『ブエノスアイレス』みたいにならないのか。スタイリッシュに」と。企画を持っていった時、大多数がそうでした。ああ、まだこれが日本の現実だなと思いましたけど、いやいや、そういうことをしたいのではなく、フラットに描きたいんですよ。僕は純粋に男同士が愛し合うのはどういうことなのかを、自分も理解したかった。男の色気や、男が男に感じる一個人の邪な性的感情だったりとか。そこに発見があって、そうしたら、別に女だろうが男だろうが関係なくその人のことが好きということに繋がっていくのを、頭で考えるんじゃなくて身体で考えたんだという映画なのかな、そうなったらいいなと思ったり。

──男でも女でも関係ないという点は、多くの議論を呼ぶポイントにもなっていますよね?
勝手にしてくれるといいなと思っていましたね。映画で僕自身はそういうことはしていないけど、一番印象的だったのは、岩井俊二監督が「この映画がすごいのは、恋愛というのはそれぞれの”例外探し”をしているんだというセリフで腑に落ちさせているところ」だと。同性愛じゃない人間の性衝動が同性に向くということで、この人だけ例外だったんだというのが明解になっているんじゃないかと。男だとか女だとか関係なくしているところが普遍的な人間の恋愛だということが伝わればいいなと思っていました。

男女間だと、例外だと言ったところで、何が例外なのか描き出すのがものすごく大変。”この二人が運命の二人だったんです”みたいな、ピーター・チャンの『ラヴソング』じゃないけど、何十年の愛とか、離れても離れても偶然にふと振り返ると後ろにいた、みたいになるじゃないですか。僕も『世界の中心で、愛をさけぶ』でそういう手法をちょっと使っているんですけどね。だけど、そういう運命的なことだけでは“例外”とは言い難いというか、それはそういう再会がきっかけで焼けぼっくりに火がついたってするのが、むしろリアルだなと思っちゃうんだけど。

この作品では自然と“例外”が浮き彫りになっていった。そういう意味では、LGBTやゲイ、ボーイズラブみたいなことでセンセーショナルな話題を振りまくという企画意図ではないことが自然とある。だから、「次に同じようなことをやろうと思っても、続くっていう感じとか、同じようにはならないんじゃない」というようなことを言われたりもしました。

──自分事じゃない恋愛を撮っていく中で、リアリティを持てたのはどういうところですか?
とにかく原作があるし、その原作を支持している人たちもいる。その中で、男同士のセックスを描かなければならないわけですよね。その時に、僕がその反動というか、自分が唯一重ねられるのがなにかといえば、女性とのセックスですよね。

実は当初、恭一の女性とのセックスはあんまり見せなくてもいいかなと思って撮っていたんですよ。でも女優さんにお願いして、もう1回来てもらって撮り直したんですね。セットがもうないのになんとか工夫して、ベッド越しの画だけで。そうしないと、女性に明らかに肉体的な欲望を持っている人間の、それを上回るような快楽の表情というものを作れないと思ってしまったから。女性の方はあっさりしていて、やっぱり同じ比重で描きたいと思えたんですよね。嫌な言い方をすると、恭一はヘテロセクシュアルなので、ひょっとしたら今ヶ瀬に対しては、ちょっとした興味本位だったのかもしれない。バイセクシュアル的な部分が俺にもあるんだなと思いながら。でもそれは入り口であって、その後が問題ですよね。今ヶ瀬にお前じゃないと駄目なんだと思えるかどうかということを描きたかったし、今度は、もっと歳をとった二人を描くというのはアリだなという考えも浮かんできてはいます。

10年後とかだったら、この二人の話はちょっと面白いかも。僕は、ひょっとしたらいろんな人が、自分の人生よりこの二人の方が純度が高いと感じたんじゃないかと思うんです。僕の友だちも…男性ですけど、すごくそう思ったそう。家で奥さんと一緒に配信で観ていて、男同士のセックスシーンは気恥ずかしくてどうしても観られず、ちょっと目をそらしたりコーヒーを取りに行ったらしいんですよ。僕と同い年ですよ。彼には「お前は古い男だなあ」って言いましたが、奥さんは「“本当に感動した。私たちの恋愛より全然純愛なんじゃないの」と言っていたそうです。

──純度という意味では、『劇場』も純度の高い映画だと思いますが、あれは反対に男女二人ともあそこまで運命の出会いだったのにも関わらず、まったくセックスとかを描いていないわけじゃないですか、極端に。それは、男女の間で純度を表現するのが難しいということなのですか?
というか、ああいう人はいるよな、と。まあ又吉さんの原作なので想像し易かったんですけど。要するに、大切な人間にぶつけられない性。性をどう受け止めているかですよね。男女にセックスが介在すると、絶対にこじれるという男の概念がある気がするんですよ。「責任とってね」というか、「私とセックスするんだからそれぐらいの覚悟はあるんでしょ?」ということを女性に突きつけられるという。これは古い考え方かもしれない。男のズルさがあるのを女はわかっていて、それが許せない。『劇場』では、本当は行ききれない二人の、結婚とかそういうものも含めて抱え込めない、自分に精一杯な男とそれを受け入れてきて壊れた女の、すべてが中途半端なんだけど、離れたくないという気持ちだけは繋がっているっていうものを浮き彫りにしたかった。

脚本家と最初に話した時に、「これはセックスは描きますか?原作にはないんですけど」「いやいや、無いほうがいいでしょ」と、そこから決めているんですよね。で、片や『窮鼠はチーズの夢を見る』は、「セックスは描きますよね?」「もちろん。これは思いっきり描こう」と。じゃないと僕らは、そこの理解というのが…でも映画として見世物になるセックスにはせず、本当に必然として二人が抱き合ったというところに行けたら良いなという話をした。

どなたかがSNSに書き込みしていたんですけど、「最近、行定の作る映画はポルノ的だな。どの映画にもセックスが介在する」って書いてあって、確かにな〜と思って。でも男女間のラブストーリーにセックスを感じさせない映画が…自分の中に、男女間というものにはセックスが良くも悪くも存在していることは意識としてあって。恋愛には欲望とか愛憎でどうにもならなくなったこじれた関係の方がリアリティを感じてしまうんです。

むしろ『劇場』はものすごくセックスを意識している映画だと僕は思っているんです。だからおっしゃった通り、そういう部分を言及していただけたら面白いのにな、と思う。「セックスも描かないのは、逃げてるよね」みたいなことが書いてある批評もあったので。いや、セックスを頭から語っているからセックスシーンがないんだと。片や『窮鼠』はむしろセックスをしつこく描いているから、「なぜこんなことまでしなきゃいけないのか、その必要あった?」みたいに言われる。今度はそっちの批判があるんだという(笑)。

──『窮鼠』が配信されてから男性の感想も増えてきたという話がありましたが、今度はBlu-ray&DVDは発売されます。配信時代のBlu-ray&DVDとは?
やっぱりコレクション欲をくすぐるもの。配信にある作品でも、どうしても自分が欲しいものはDVDとかブルーレイを買うんですよ。ストリーミングサービスも、いつしか、あれ?なくなってる!っていう時代が来ると思っていて、これ買っときゃよかったなと思うのが、アート映画とかは特に多いですね。

──『劇場』や『窮鼠はチーズの夢を見る』も、アート映画としては考えていないのですか?
あんまり考えていないですね。僕だと『きょうのできごと』は国内ではあまり知られていないかもしれないけど、海外の人たちからすると、ベルリン国際映画祭で上映しているので、ヨーロッパでも知っている人がいる。アジアではとにかく知られている。台湾の『九月に降る風』を撮った監督(トム・リン)が、「『きょうのできごと』を学生の時に観て映画監督になろうと思うきっかけの一つになった」と言ってくれたり。これがまた、ストリーミングサービスにはなかなか載っていない。2010年以降の作品を中心にまずセレクトされていて、あとは完全にクラシックじゃないですか。その中間の時代ってやっぱりDVDを持っていないと無くなるし、今のうちはいいんですけど、いちばん危険なのは、『劇場』なんかもある種の男女二人のささやかな映画だから、どこかのストリーミングのラインナップに入ってくれていればいいんだけど、それが無くなっていくと、膨大な数になっていく中で埋もれていってしまう。今だって、俺がだいたい観たいなと思う作品を調べるのが趣味で、1ヶ月に1回ぐらいやるんですよ。そしたら「うわっ、これ入ってる!」みたいなのが、ほぼほぼ無いですよね。あったとしてもにレンタル。やっぱりそういう立ち位置の映画が僕は好きだから、繰り返し観たいものは買うべきだといまだに思っていますけどね。あと棚にそれがコレクションとして並んでいるのは…嬉しい。観ないんですけどね(笑)。あとコメンタリーは聞きたい。

──コメンタリー、大好きです。
僕もマニアです。コメンタリーが面白い映画の監督は、やっぱり生き残りますね。圧倒的に面白い。サム・メンデスとかめちゃめちゃ面白いですね。『アメリカン・ビューティー』。見事に語っています。ポール・トーマス・アンダーソンとかも面白いですけどね。タランティーノももちろん面白い。コメンタリーってやっぱり、裏話だけじゃなくて、作り方の思想みたいなものが見え隠れするから、やっぱりそっちの方が重要だと最近も思いますし、ストリーミングサービスにはコメンタリーがない。今回の『窮鼠』ではコメンタリーを望んだんですけど、コメンタリーというよりは、1つのドキュメンタリーというか、メイキングとあわさったインタビューとかでコメンタリー的な扱いになっていたので、見ごたえがあって面白かったと思います。

あとは『パリ、テキサス』でヴェンダースが語っていた逸話が素晴らしい。ハンターを演じた子役の男の子が、育ての親と本当の父親であるトラヴィスを前に、二人に「おやすみ」って言ったのがアドリブだったという話。「あれは本当に感心した、俺は指示していないのに」とヴェンダースが語っている。ああいうのを観るとやっぱり、俳優がその役になりきって超えてくることで、真実味を強める。そういう映画はやっぱり歴史に残ると思います。

──今回の特典映像には、よく話題になった二人の乳繰り合うシーンの演出もメイキング映像として入っていますね。行定さんがすごく嬉しそうに演出していた(笑)。
演出というか、やってって言ったら、もう勝手にやっていたという。あれ、客観的に見るとすごく嫌ですね(笑)。僕は、こうだって指示するような演出ができなくて、一緒になってやってみる方なんですよね。実際にやっていきならがカメラを回していて、「これで良かったよ」って言って、向こうも「え、これで良かったんですかね〜?」っていうのが結構良い。理解しないうちに終わる。わかってしまうと、どうですか?みたいな芝居になっている映画をよく見るんですよね。渾身の思いでその芝居をやられても、その狙いとか、”俺わかっているでしょ”みたいなのはどうしても排除したいから、なんかわからないうちに撮っておきたい。1回やってもう次から回してみよう、みたいな。あとはカメラマンがそれをどう理解して撮るか、そこの勝負だと思うんで、それが良くなかったら沼にハマっていく。

──あのシーンでは、カメラマンが本当は寄るはずだったのに、引いて撮っていたそうですね。
そうなんですよ、全体を撮っちゃってて(笑)。えっ、全体撮ってんの?って思って。でもそれが面白いんですよね。それで「カット」って言ったらもうカメラマンがゲラゲラ笑って「面白れ〜〜」って言ってたから、ああ、満足なんだなと思いつつ、「でも一応寄りも撮っといて」って(笑)。

でも、自分の想像と違うものが意外と成立するもんだなと。楽しくやっていたのは確かなので、『窮鼠はチーズの夢を見る』はテーマ的に捉えないようにと、最初からみんなに言っていました。衣装にしたって何にしたって、テーマ的に捉えていくと、やっぱりどうしてもこうじゃないと駄目というところに捕まってしまう。いやいや、これはキャラクターなんだ、唯一無二のキャラクターで、LGBTQとかBLという言葉とかは企画書から全部排除して、ラブストーリーに統一しよう、と。やっぱり、ラブストーリーというのが最初からあって。

しかし、不思議なもので、肩を組んだ恭一と今ヶ瀬がすれ違う女性のエキストラの二人は、何の指示もしてなかったのだけど、すれ違った後にコソコソと「ねえ、あの二人ゲイかなあ」ってやっちゃうんですよ。「あ、それが自然な行為なのね?」と思ったけど、排除しました。そういう露骨な演出で二人の社会における存在を際立たせる方法もあるとは思うけど、社会的に二人がどう見られているかという観点を取り入れたくなかったのでやめました。

そのエキストラさんに、社会がそうやって奇異な目で男同士を見るというような印象を植え付けたくないからやめて欲しいと説明したら、「すいません余計なことをして」と。「ああやってやるの?」と聞いたら、「いや、やったほうがいいかなと思って」って言うんですよ。そう考える概念を見逃してしまうと、そこに映画の思想があるように映ってしまう。間違ったように受け取られる。僕はそういう風に思想を映したくない。これは原作ファンもいて、名作だと言われる二人の、まるで『浮雲』のようなどうしようもない男とそれを好きになっちゃった男が苦労するという話なので、そこに落ちればいいな、と。

──では『窮鼠』は、『劇場』と違うもう一つの『浮雲』なんだと?
おこがましいですが、『浮雲』的だなと。むしろ『劇場』より『窮鼠』の方が『浮雲』感がありますね。

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『窮鼠はチーズの夢を見る』

7年ぶりの再会 突然の告白 運命の歯車が動き出す──
学生時代から「自分を好きになってくれる女性」と受け身の恋愛ばかりを繰り返してきた、大伴恭一。ある日、大学の後輩・今ヶ瀬渉と7年ぶりに再会。「昔からずっと好きだった」と突然想いを告げられる。戸惑いを隠せない恭一だったが、今ヶ瀬のペースに乗せられ、ふたりは一緒に暮らすことに。ただひたすらにまっすぐな今ヶ瀬に、恭一も少しずつ心を開いていき…。しかし、恭一の昔の恋人・夏生が現れ、ふたりの関係が変わり始めていく。

原作/水城せとな「窮鼠はチーズの夢を見る」「俎上の鯉は二度跳ねる」(小学館「フラワーコミックスα」刊)
監督/行定勲
脚本/堀泉杏
音楽/半野喜弘
出演/大倉忠義、成田凌、吉田志織、さとうほなみ、咲妃みゆ、小原徳子
映倫区分:R15+

2021年3月3日(水)Blu-ray&DVDリリース!同時レンタル開始!

豪華版Blu-ray(Blu-ray+DVD)
JAXA-5131〜5132/6,500円+税
収録:
[Disc1/Blu-ray]映画本編(130 分)+予告編
[Disc2/DVD] 特典映像(94 分)「窮鼠はチーズの夢を見る」バックストーリー(メイキング・未公開シーン・監督インタビュー)/夏休み限定イベント/公開記念舞台挨拶
仕様:三方背ケース+デジパック/ブックレット(28 ページ)/フォトカード3枚封入
音声:[Disc1]①DTS HD Master Audio 5.1ch ②DTS HD Master Audio 2.0ch[Disc2]Dolby Digital 2.0ch
字幕:日本語字幕(映画本編のみ)

豪華版DVD(DVD2枚組)
JABA-5394〜5395/5,800円+税
収録:
[Disc1/DVD]映画本編(130 分)+予告編
[Disc2/DVD]特典映像(94 分)「窮鼠はチーズの夢を見る」バックストーリー(メイキング・未公開シーン・監督インタビュー)/夏休み限定イベント/公開記念舞台挨拶
仕様:三方背ケース+デジパック/ブックレット(28 ページ)/フォトカード3枚封入
音声:[Disc1]①Dolby Digital 5.1ch ②Dolby Digital 2.0ch[Disc2]Dolby Digital 2.0ch
字幕:日本語字幕(映画本編のみ)

通常版 DVD
JABA-5396/3,800円+税
収録:[DVD]映画本編(130 分)+予告編
仕様:トールケース
音声:[Disc1]①Dolby Digital 5.1ch ②Dolby Digital 2.0ch
字幕:日本語字幕(映画本編のみ)

※商品仕様は予告なく変更になる場合がございます。

発売元/株式会社ジェイ・ストーム
販売元/株式会社ソニー・ミュージックソリューションズ