【ネタバレなし予習】『TENET テネット』の背景にある物理学的概念を解説 ─ クリストファー・ノーランの科学〈完結編〉
- Joshua
クリストファー・ノーラン作品『インセプション』、『インターステラー』、『メメント』に通底する時間概念を解説してきた連載の完結編となる今回の記事では、9月18日(金)に公開を迎えるノーラン最新作『TENET テネット』を根底から楽しむための予習解説を行う。公開前ということで、物語の根幹に関わるようなネタバレは避けているので、その点は安心して欲しい。ネタバレを避けつつも、読者の方々が『TENET テネット』を劇場で観る際に、劇中で登場する小難しい科学用語に不必要に惑わされぬよう、そうした科学知識をこの場で予め理解してしまおう、というのが本記事の意図である。
まず公開前に『TENET テネット』を鑑賞した者として、言いたいことがある。確かに『TENET テネット』は前評判通り、難解である。話の大筋を掴むのが難しい。ただ、この「難しい」という言葉には2つのフェーズが含まれている。
「難しい」の1段階目は、「要所要所で説明される内容が、専門的な用語を含んでいて、理解が追いつかない」というノーラン節に由来するものだ。「これまでの私の作品について来れたのならば、これくらい大丈夫だろう」とでも言わんばかりに、観客の頭脳に確かな期待を感じさせるスタンスである。確かに、訓練されたノーランマニアなら、付いていくのも容易なことかもしれないし、ましてや「完全な理解のためには物理学の高度な知識が必要だ」などど脅かすつもりもない。とはいえ、作品の細部にまでこだわりたい人にとっては、「言っていることの一部分が理解出来ない」というのはストレスとなるだろう。
2段階目の「難しい」には、「物語の展開がスピーディーで理解しにくい」というフェーズが存在している。こちら側があーだこーだ考えているうちに、どんどん話が先に展開していく様は『インセプション』に似ている。ただ、この「難しい」はノーラン作品のファンにとってみれば、魅力でさえある。だからこそ、その魅力的な部分に存分に集中力を配分するためにも、鑑賞中は「難しい」の1段階目のフェーズでストレスを感じて欲しくないのだ。
『TENET テネット』では、「反粒子」や「エントロピー」といった物理学的な用語が登場する。連載の後編となる今回は、その2つの用語を中心に、『TENET テネット』における「時間逆行(反転)」の可能性について解説していこう。ノーランも驚いたように、「時間逆行(反転)」は、何百年も昔からその可能性について物理学のフィールドで論じられてきていたのだ。
エントロピーとはなにか
『TENET テネット』では、時間を逆行する銃弾についての説明で、「エントロピー」という言葉が登場する。「エントロピー」とは一体何者なんだろうか。実はこの「エントロピー」という言葉は、物理学でも熱力学や量子情報理論といった幾つもの分野で使われている用語なのだが、「エントロピーとはこういうものだ」と端的に言い切ってしまうことは最初から不可能なのだ。ただ、「エントロピー」という言葉の1つの用法として、「乱雑さの度合い」とか「可能性の広さ」といった意味がある。『TENET テネット』の作中ではその用法で用いられている。
あなたは朝起きて、カップに入れた温かい紅茶を優雅に飲んでいたとしよう。そこへ、友人から電話がかかってきた。「まったく朝からなんだ」と思いながらも結局話し込んでしまっまい、電話を切ってみると、もうそこに温かい紅茶はなく、すっかり冷めた紅茶があるだけだ。
このように、周囲の環境に比べて温かいものは、放置されれば必ず「冷める」ことを私たちは経験的に知っている。カップに入れたての紅茶が65度、カップ自体の温度が25度くらいだったときを考えよう。紅茶の方がカップよりも温度が高いこの状態は、物理学では、紅茶の方が持っている「エネルギー」が多い、などと表現する。紅茶もカップも同じ「原子」という目には見えない最小単位で構成されているが、エネルギーをより多く持った紅茶の原子の方が、より激しく振動している割合が大きいのだ。私たちは日常的に「温度」という尺度を好んで使うが、実はこれは物体を構成する小さな粒である原子が、どれだけ激しく振動・運動しているかの指標を表している。
65度の熱い紅茶の「激しく振動する原子」の集団と、カップの「大人しく振動する原子」が接触するとどうなるか。2つの集団の原子は互いにぶつかり合うことで、エネルギーの受け渡しを行う。つまり熱い紅茶の「激しく振動する原子」は、カップの「大人しく振動する原子」らにぶつかることでエネルギー(温度)を引き渡し、互いの原子集団は全体の均衡が取れるまでそれを続けるのだ。
この反応は、互いに授受するエネルギーがマクロに見て無くなるまで行われる。それはすなわち、「紅茶とカップの温度が等しい状態」になるまでエネルギーの授受を行い続けるということだ。これこそが、「冷める」ことの物理的なプロセスである。
さて、この極めて日常的な現象は、実は重要なことを示唆している。そこに初めて気がついたのは、「エントロピー」の生みの親となったドイツの物理学者ルドルフ・クラウジウスだった。クラウジウスはこの冷める紅茶の例から「エントロピー」を思いついたわけではなく、「蒸気機関は何の物理法則に従っているのか」という当時の重要な問題に取り組んでいたときのことであったが、原理的にはこの紅茶の例でも考えるべきことは一緒である。それは、「紅茶は一旦冷めると、元の熱い紅茶には決して戻らない」という自然の掟とも言える重要な性質である。もちろん、紅茶をレンジに入れるなどして再び温め直すことはできるが、冷めた紅茶が”自発的に”元の状態に戻ることはない。
紅茶の例だけでなく、この世界には1度進行したら元には戻せない現象が数多く存在する。混ぜたコーヒーとミルクを分離すること、車の横転事故を無かったことにすること、銃口から放たれた銃弾を銃内部の元の位置に戻すこと、これら全て自発的には不可能である。このような現象は「不可逆」である、と言われる。「ああ、もしも全てを元に戻せたなら」と後悔したことが無いという人はいないだろう。そう、世の中のあらゆる現象は不可逆な現象ばかりなのだ。
ただし、すなわちそれは、自然がある意味「その不可逆な現象を選んでいる」と捉えることも可能だ。ここから時間反転の話に移ろう。
物理法則における時間反転
それでは本題に入ろう。野球ボールを斜め上に向かって投げたとしよう。Aさんが投げたボールをBさんが受け取ったとし、ボールが描く放物線軌道を、カメラで横から動画撮影していたとする。この動画を時間反転すると、どうなるだろうか。動画を逆再生してみると、それが分かる。動画を逆再生したところで、ボールに働く重力などの力は逆向きにはならないだろう。もしもそうなったなら、ボールはひたすら真上方向へ飛んでいき、手元に戻って来なくなる。これは「ボールが放物線を描いて、キャッチボールが成立した」という事実と反する。したがって、時間を反転しても動画内における力の向きなどは変わらない。
引き続き、逆再生された動画を想像しよう。逆再生された動画では、Bさんの手からボールが放たれているように映る。ボールはBさんの手から離れ、上昇するにしたがってスピードがどんどん落ちていく。最高点に達したボールは、再び落ち始め、最終的にAさんの手元に帰ってくるだろう。こんな映像が見れるはずだ。
あれ、これってボールの軌道だけに着目すれば「Bさんがボールを投げ上げる運動」と全く同じことじゃないだろうか?何の情報も無いまま、反転された映像とそうでない映像を見せられたら、どちらが「本物の映像」かなんて区別は出来ない。実はボールを投げる運動、つまり力学の法則に支配された運動は時間反転しても不変なのだ。映像だけを見て、どちらが「過去→未来」か「未来→過去」の映像かを区別することは原理的に出来ないということだ。
物理学的には投げたボールの軌道は、運動方程式という方程式によって表されている。この運動方程式が実は、時間の反転について対称な形をしているのが背景にある。「TENET」という言葉が前から読んでも、後ろから読んでも意味が変わらない対称な形をしているように、物理法則は「時間の向き」を区別しないということだ。
しかしここで、冒頭で説明した紅茶の例を思い出してもらいたい。物理法則が「時間の向き」を区別しないのだとしたら、不可逆な現象があるのは不思議じゃないだろうか。力学の法則は、「一度冷めた紅茶が再び自発的に温まる現象」が起こっても良いと相変わらず主張しているのに関わらず、現実はそうはなっていない。ここに「エントロピー」が関わってくる。
エントロピーとは、「乱雑さの度合い」とよく説明される。紅茶の例で説明を続けてもいいが、もう少しシンプルな例で説明しよう。
教室の隅っこに色のついた気体が入った袋があったとする。その袋を破くと、気体は教室の隅々に行き渡ろうとする。「気体が教室に散らばる状態になる確率」と「破いた袋に気体が戻っていく確率」は、前者の方が圧倒的に高い。というか、後者が起こるような確率なら、教室を満たしている空気が突然どこか一点に集まりだし、他の領域は全て真空になるという恐ろしいことが起きてもおかしくないということを意味する。22.4リットルの空気の中には約600,000,000,000,000,000,000,000個の分子が存在するが、これらの分子が奇跡的に特定の方向にある特定の領域に集合するような確率は、限りなく0に近い。例え宇宙が誕生してから終わるまで待ち続けたとしても、「破いた袋に気体が戻っていく」事象も、「教室を満たしている空気が突然どこか一点に集まる」事象も、体験することは出来ないだろう。
要するに、「気体が教室に散らばる状態」の方が「乱雑さ」の度合いが大きいのだ。「乱雑さ」の度合いが大きいということは、それだけその状態になる「確率」が大きいということを意味する。力学の法則はこの「乱雑さ」の度合いの大きさを持ってして、現象を数式上区別しないが、「確率的に非常に小さな現象は起こりえない」ということを私たちは経験的に知っている。
「乱雑さ」の度合いが大きいことを、エントロピーが大きい、と表現するが、どうやら自然は外部の影響がない孤立した空間では「エントロピーは増大する」ようだ。一度放たれた銃弾は元には戻らない。これは最初の状態に比べて、エントロピーが増大してしまったからだ。もしも自発的に銃弾が元に戻ることがあったとすれば、それはエントロピーが減少したことを意味する。人間の手を外部から加えれば(=孤立した空間ではなくなる)エントロピーを減少することは可能だが、『TENET テネット』で観られる反転現象はあくまでひとりでに起こっている現象であることに注意して観てほしい。まるで、確率の操作が可能になっているかのようだ。
そしてエントロピーが増大する向きは時間の流れる方向を教えてくれる、ということにピンとくるだろうか。投げ上げたボールの例では、反転動画か否かを区別することは原理的に不可能であったが、ここまでに紹介した不可逆な例では、「エントロピーが増大している」方が現実の時間の流れに相当したものであるだろうから、その区別が可能になっている。裏を返せば、時間の進む向きとはエントロピーが増大する向きに等しいということだ。すなわち、「エントロピーを減少させること」は、「時間の進む向きを反転させること」と等しい。
反粒子とはなにか
さて、最後に「反粒子」の話をしておきたい。私たちの世界には「粒子」という物質の構成単位が存在する。朝に飲むコーヒーや紅茶も、座っている椅子も、この地球や宇宙全体も、目には見えない「粒子」で構成されている。冬の日に経験することの多い、ちょっぴり痛いあの静電気の力も、それを媒介する「粒子」が存在している。私たちの世界は見渡す限り、小さな粒で作られた世界なのだ。
「粒子」は様々な種類があるが、普通「粒子」は電気を帯びていて、”電荷”と呼ばれる正負の量でそれが表現されている。例えば私たちの身体を構成する重要な要素である、「電子」と呼ばれる粒子はマイナスの電気の量を持っており、「マイナスの電荷量を持つ」などと言われる。
十分にエネルギーを持ったガンマ線などの光(電磁波)は「対生成」と呼ばれる現象によって、2つの粒子を放出することがある。このとき片方はマイナスの電荷を帯びた電子が生成され、もう一方はプラスの電荷を帯びた粒子が生成される。このプラスの電荷を帯びた粒子は電荷以外、電子と質量などの性質が同じなのだ。このプラスの電荷の「電子」を、「反電子」もしくは「陽電子」と呼ぶ。
このように「反粒子」は「粒子」に対するペアとして生成される粒子のことを指すのだが、この「反粒子」のことを物理学者のファインマンは「未来から過去に向かう粒子」と説明した。正直、このフレーズさえ知っておけば『TENET テネット』での当該場面は理解出来るのだが、もう少し補足しておこう。
ボールの軌道は運動方程式と呼ばれる方程式に支配されていたように、電子についてもその運動方程式が存在している。電子の運動方程式にはディラック方程式と呼ばれるものがあるが、実はこの方程式は同時に反粒子の方程式にもなっているのがミソだ。そのディラック方程式上では、「過去から未来に進む陽電子」は「未来から過去に進む(仮想的な)電子」に同一視される。つまり電子は「過去から未来に進む」普通の電子であり、反電子とは数学的に「未来から過去に進む」電子である、という解釈が可能なのだ。
私は『TENET テネット』をIMAX試写会で鑑賞した際、上映後にこんなツイートをした。この記事をここまで読まれた方なら、この文章の意図を読み取ってもらえるかもしれない。
「素粒子論では、私達実世界で支配的に存在する”粒子”に対して時間を逆行する存在の”反粒子”をよく考えます。『テネット』は、この反粒子の立場から見た”反”世界が観られる歴史上最初で最後の作品になるかと思います。実世界を超越した映像作品、これこそ映画です」
最新作『TENET テネット』で描かれる非日常を超えた世界は、言葉で表せないほど美しい。クリストファー・ノーランという監督は、「時間」というこの世界に普遍的に横たわる偉大な存在をあらゆる方向から描いてきた人間である。「時間の反転」が描かれる『TENET テネット』では、時間は一方向にしか進まないという常識を捨て、あの世界を目の当たりにして欲しい。
私たちの世代では、生きているうちに時間を巻き戻す技術が確立することはないだろうが、問題ない。それは、『TENET テネット』で観れるからだ。私たちが普段何気なく暮らしている宇宙が、奇跡的でかけがえのない実在であることに気づくことの出来る2時間30分になることを保証しよう。
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9月18日(金)20時より、本記事の筆者による『TENET テネット』鑑賞前のネタバレなし予習講座をYouTubeにて生配信します。詳細はこちら。
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『TENET テネット』(原題:TENET)
ミッション:〈時間〉から脱出して、世界を救え──。名もなき男は、突然あるミッションを命じられた。それは、時間のルールから脱出し、第三次世界大戦から人類を救えというもの。キーワードは〈TENET テネット〉。任務を遂行し、大いなる謎を解き明かす事が出来るのか!?
監督・脚本・製作/クリストファー・ノーラン
製作/エマ・トーマス
製作総指揮/トーマス・ヘイスリップ
出演/ジョン・デヴィッド・ワシントン、ロバート・パティンソン、エリザベス・デビッキ、ディンプル・カパディア、アーロン・テイラー=ジョンソン、クレマンス・ポエジー、マイケル・ケイン、ケネス・ブラナー
日本公開/2020年9月18日(金)全国ロードショー!
配給/ワーナー・ブラザース映画
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