Column

2020.09.15 21:00

【徹底解説】『インセプション』から紐解くノーランの時空観 ─ クリストファー・ノーランの科学〈前編〉

  • Joshua

「夢」とは何だろうか。

我々が睡眠中に見る夢とは、無作為に抽出された日中の記憶が、論理性と合理性の壁を超えて結合し形成された、集合的心像のことである。多くの場合、その集合的心像は視覚情報を多分に含んでいる(その意味ではランダム抽出ではない)──という事実は、我々が実際の経験として実感してきたところだろう。そうした視覚情報に支配された「夢」は、個人が持つ将来のビジョン(Vision)という未来像的な意味でも用いられることが常である。

夢(Dream)とは、個人の直接的な欲求・願望を指す言葉であると同時に、現実に無い事象の感覚をも意味する多義語であり、本作『インセプション』はそうした”夢”を真っ向から描いた怪作である。

さて今回から複数記事にわたり、クリストファー・ノーランの代表作とも言える『インセプション』、『インターステラー』、『メメント』の3作品を中心に、解説連載を行なっていく。これらの作品に通底する概念に着目するために、特に3作で描かれている「時間概念」について考察を深めていきたいと思っている。既に語られ尽くされたこの3作品に、一風変わった視点から思考の刃を入れていくつもりだ。

それと、上記の順番で解説を行おうとしているのには、一応理由がある。9月18日(金)に公開を控えるノーラン最新作『TENET テネット』との接続性を分かりやすくするためだ。そちらの解説も本連載の最後に行うとして、ひとまず本記事では、『インセプション』で描かれた「時間概念」を中心に、考察を深めていきたい。

エッシャーの階層構造

『インセプション』に対して、「まるでエッシャーの騙し絵のようだ」という感想を持った人はきっと少なくないだろう。実際、アーサー(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)はアリアドネ(エレン・ペイジ)に現実と夢の世界の違いを説明する為に、エッシャーの階段の概念を取り上げている。「夢の境界を偽装するのに役立つ」とアーサーは説明する。

マウリッツ・コルネリス・エッシャー「相対性」(1953年)All M.C. Escher works copyright © The M.C. Escher Company B.V.-Baarn-Holland. All rights reserved. www.mcescher.com

加えて、アリアドネがパリ風の街並みをキューブ状に折り畳むシーンも、実は極めてエッシャー的だ。折り畳まれた街並みの各面に重力がそれぞれの方向に配置される非現実的な様子は、まさにエッシャーの「相対性」そのものである。アーサーがアリアドネに階段の概念を説明するよりも、前の段階でこのシーンが描写されたことから、作中のエッシャーの暗喩は、ノーラン自身の意図であることが容易に読み取れるだろう。アリアドネはノーランの作為的な意志を投影した、メタ的ポジションに配置された人物なのである。

第1階層から第2階層へ、そして第2階層から第3階層へと”落ちていく”ためには、仮想的にも”重力”が必要である。実際、そもそも『インセプション』という作品は、「落ちること」を主役級の重要概念に据えた映画であったことを思い出してもらいたい。夢から覚めるための一つの方法として用いられていた「キック」という手法は、落下することにより睡眠状態にある身体に衝撃を与えることで、身体の平衡感覚を司る三半規管に刺激を与え、覚醒を誘発する絶大な効果を持っていた。「落ちること」の、非日常的でありながらもOngoing=進行中な事象が身体に直接的な”死”の危機を突きつけることで、我々の意識を夢から引き剥がす。重力に紐付いた現象は、そうした強制力を有しているのである。

エッシャーの「相対性」を彷彿とさせたアリアドネの”街並み改変”の場面も、地球の中心方向に束縛された現実の重力を乱雑な方向に再構成させてみせることで、夢の世界におけるリアルな物理法則の強制力からの離脱を、巧みに描いている。ノーランによる(メタ的にはアリアドネによる)エッシャー文脈の持ち出しは、実のところ「重力」というキーワードの暗喩でもあったと捉えることが可能だ。

ここで、夢の世界での時間の流れが、現実世界のそれより遅いことを思い出そう。現実の10時間が、1階層では1週間、2階層では6ヶ月、3階層では10年──という具合に、階層を下っていくにつれ時の流れが密なものになり、遅延していく。この夢の時間描写は、よく考えると実にユニークだ。なぜなら、現実は真逆だ。夢の中の5分は現実の1時間に相当することもあるくらいに、睡眠時の脳は極めて低速度な処理しか行えないのが普通だ。下の階層に落ちるに連れて時間が遅くなるという特異な描写は、脳科学的な現象論から解釈を試みるよりも、「落ちること」から想起される仮想的な重力を付随して考えた方が興味深い。

仮想的重力と時間の遅れ

ここで一度、重力とはそもそも何かということを、現実世界に問いかけてみたい。我々が暮らす現実世界で、重力の本質について徹底的に考えた人物がいた。かの有名なアインシュタインである。

「重力と時間」が物語の鍵となった『インターステラー』の時間概念について述べようとしたら、「重力」と「時間」の関係性は当然避けて通れない話だが、実は『インセプション』も、その構造を仮想的に内包している。そのため、ここではアインシュタインが構築した重力の一般化理論である、一般相対性理論の帰結を話しておきたい。

コブ(レオナルド・ディカプリオ)

重力とは、何だろうか。重力とは「時空の歪み」そのものであると、アインシュタインは1916年に提出した論文の中で主張した。アインシュタインの論文が世に出るまで、重力とはニュートンの「万有引力」を指す言葉であった。中学や高校の理科の授業でも習うように、リンゴが地面に落ちるのは、リンゴと地球の間に万有引力と呼ばれる力が働くからだ、というのがニュートンの説明である。リンゴと地球だけでなく、この世のありとあらゆる物体(万物)同士にこの力は働くため、”万有”引力と呼ばれている。しかし、この万有引力とやらは、実に不思議である。リンゴと地球、この2つの物体間に媒介となるものが存在していないのに、なぜ離れた状態で力が働くのだろうか?物体と物体の間の「事物でない」領域を飛び越えて、直接遠隔地にある相手に力を及ぼせるというのは一体どういうことか?

ニュートンは、この問題に満足のいく解答を与えることが出来なかたった。長らく未解決のまま放置された重力に対するこの問題は、アインシュタインの登場により、実に美しい形で解決を迎えた。それが、「重力とは時空の歪みそのものである」という着想である。

簡単に説明しよう。一片の平らな紙の中央に鉄球を置き、紙を曲げることを想像してみて欲しい。全体が平らの状態のときは紙面上のあらゆる場所も当然平らであるが、中央に鉄球が置かれて紙が曲げられると、紙面上の各々の点は、元々存在していた場所からズラされることになるだろう。このため、曲げられたこの紙全体は、漏斗の内壁のような役割を担うことになる。

© ESA–C.Carreau

つまり、消しゴムのような軽い物体を漏斗状に屈曲したこの紙に置こうとすると、中央にある鉄球に引き付けられるように、坂道を転がり落ちるように中心に向かおうとするだろう。平面の歪みの影響を受けて消しゴムが中心に引っ張られるこの様子を見た人間は、そこに”重力”が働いたからだと判断を下すわけである。

空間の屈曲を微塵たりとも許さなかったニュートンの万有引力の理論では、重力は、因果関係を持たない離れた物体同士を直接的に結びつける力として説明された。しかしアインシュタインによるこの新解釈は、物体の存在により空間が曲がり、空間の歪みを受けて物体に力が働いているように認識されるという、物質と空間の相補的な関係性を露わにするものであり、謎めいた重力という相互作用力を、物体間にただ存在するばかりだった「事物でない」空間それ自身の一性質として転化したのである。

厳密には、「時空(時間+空間)の歪み」を考えなくてはならないので、平面の紙の歪みだけでなく、時間の歪みも考慮に入れなくてはならない。「曲がった平面」である地球の表面(球面)上では、飛行機の経路上の最短経路が地図上の直線ではなく、地球の曲率に沿った山なりな曲線であったことを思い出すと、どうやら「曲げられる」ということは、「最短距離」の概念がその曲げられ具合に対応した形で改変されること、と言えそうである。すなわち、物質の存在により湾曲した空間の距離指標は、平らな空間の距離指標と異なっているということである。

このあたりの詳しい説明は次回の『インターステラー』解説に譲るとして、ここでは時間の湾曲について話しておこう。「曲げられた」空間の距離指標が変わってしまうのと同じく、時間も、曲げられることでその距離指標の変更を受ける。時間の距離指標の変更とは、一体どういうことだろうか。

分かりやすく言えば、時間にとっての距離指標とはその時間が過ぎるスピードに相当するため、「曲げられていない」平面的な時間と比べて、時間が遅れるとか早まるといったことが起こるようになる、ということである。そう、これはまさに『インターステラー』で見られた効果のことである。ガルガンチュアと呼ばれた超巨大ブラックホールの近傍を公転する水の惑星では、ブラックホールの超重力の影響を受け、時間が曲げられる。この湾曲の効果により、水の惑星の1時間が地球での7年間に相当するという、特異な現象が起こることになったわけだ。

さて、ここで『インセプション』に話を戻そう。ユスフ(ディリープ・ラオ)の運転するバスはカーレースの末、橋から落下してしまう。落下により各人の夢の中は無重力状態となり、キックを実現する手立てを失ってしまった。そこでアーサーは仲間たちを縛った上で固定し、爆薬を設置したエレベータに乗せ、爆弾を炸裂。爆発のエネルギーにより加速を得たエレベーターには慣性力が生まれ、重力が帰還する。この一連の「重力の回復」は、アインシュタインが自身の重力理論を思いついた際に想起した「等価原理」に通ずる部分である。重力と加速や減速に由来する慣性力は本質的に区別出来ないとする「等価原理」が夢の世界でも成立していなければ、この「重力の回復」は達成不可能だっただろう。

また、階層の降下に従って時間がより密なものとなっていくという『インセプション』の特徴的な設定は、「夢の中での行動範囲を十分に広げるために、そういう設定なのだ」と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、私が『インセプション』におけるこの時間の遅延性を確認したとき、やはり頭に思い浮かんだのは重力であった。

『インターステラー』でも描かれていたように、重力の存在は時間を遅らせる効果がある。しかし夢という実体を伴わない仮想的な現実世界に対応するのは、『インタステラー』のようなリアルな重力ではなく、仮想的な重力である。『インターステラー』、『インセプション』、『メメント』、そして後続する『TENET テネット』──どれもが劇中の固有な時間性質に依拠したサイエンスフィクションであるが、その中でも『インタステラー』と『インセプション』は、重力による時間の遅延性という観点において通底する時間概念を有した作品である。

つまり、『インターステラー』は現実的な重力と時間の関係性に依拠した物語であり、『インセプション』は個人の脳の電気信号で作られた夢世界における仮想的な重力とそれに引きずられた時間(これも脳内で形成された虚構的な時間に過ぎない)の関係性に準じた物語なのである。

ここまでの話をまとめると、以下のような図がかける。

(筆者作成)

私が初めて『インセプション』を観たときに想像した夢の階層構造はまさにこの図だったのだが、おそらくこれは、通常とは真逆の捉え方だろう。『インセプション』の階層構造をネットで検索すると、現実から徐々に下に向かって夢の階層が続いていく図ばかりが出てくる。しかし、「重力が強いほど時間が遅れる」という物理学的な事実に基づくと、現実を土台にして上に向かって夢の階層が続いていく図がかけるのだ。実はこのように、『インセプション』の夢の階層由来の時間遅延を、重力の特性に帰結させたのは、「物語から連想されるから」以上に理由がある。それは特に『インセプション』と『インターステラー』の関係性に深く関わってくるため、最後にその部分をみていこう。

『インセプション』とラングランズ・プログラム

夢の世界と現実の世界を対比させることは、実は数学の世界と物理学の世界を対比させることとよく似ている。物理学は身近なスケールから宇宙規模のスケールに至るまで、現実の様々な事象を記述することの出来る学問であるのに対し、数学は現実と関係を持つ必要がなく、その体系が現実の物理法則に影響を受けることはない。アリアドネがパリの街並みを折り畳んだように、数学の世界では現実に存在しない図形を考えることだって出来る。数学の世界は、現実の束縛から極めて自由なのだ。まさに夢の世界じゃないだろうか。

アリアドネ(エレン・ペイジ)

数学が夢、物理学が現実の世界に対応していると考えてみると、夢の世界の言葉(数学の言葉、数式)で現実を語ることが可能なのは不思議である。物理学は数学言語を用いて成り立っている学問だが、なぜ人間の脳内で創り出された抽象的思考の産物に過ぎない数学が、私たちの存在とは元来関係のない現実世界の物理法則を説明することが出来ているのだろうか。「数学と物理学に境界線はあるのか」という、人類が直面している最大規模のこの問題は、現代になって真剣に研究され始めている。そのような境界線はきっと無いはずだ、現実の世界は数学で記述されているという予想の下、ラングランズ・プログラムという名でその試みが行われている。『インセプション』は私に、まさにこのラングランズ・プログラムを想起させる映画なのである。

数学と物理学、夢と現実の境界線が無かったとすると、夢の世界の時間遅延が現実の世界の重力の特性によって説明されることは、不思議ではないだろう。そして、夢の世界での知的戦争を描いた『インセプション』は数学の世界、現実の物理法則に翻弄される人間の物語を描いた『インターステラー』は物理学の世界に対応した作品であるといえるかもしれない。

いささかユニークな見方だと思われるかもしれないが、『インセプション』と『インターステラー』は時間概念の部分が通底しているだけでなく、私には2作品の境界線は本質的に曖昧なものに思えるのだ。ノーランがここまでのことを考えていたかどうかは知る由もないが、それでも、『インセプション』の4年後に『インターステラー』を世に打ち出したバランス感覚の良さは、この世界に普遍に横たわっている事物の本質を描き抜き出したいと、まるで物理学者や数学者のように情熱的に願ったからこそのものであろう。

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『インセプション』(原題:Inception)

監督・脚本・製作/クリストファー・ノーラン
出演/レオナルド・ディカプリオ、渡辺謙、ジョセフ・ゴードン=レヴィット、マリオン・コティヤール、エレン・ペイジ、トム・ハーディ、キリアン・マーフィー、トム・ベレンジャー、マイケル・ケイン
上映時間:148分/2010年

ダウンロード販売中、デジタルレンタル中
ブルーレイ 2,381円+税/DVD 1,429円+税
発売元/ワーナー・ブラザース ホームエンターテイメント
© 2010 Warner Bros. Entertainment Inc. and Legendary Pictures. All rights reserved.

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『TENET テネット』(原題:TENET)

ミッション:〈時間〉から脱出して、世界を救え──。名もなき男は、突然あるミッションを命じられた。それは、時間のルールから脱出し、第三次世界大戦から人類を救えというもの。キーワードは〈TENET テネット〉。任務を遂行し、大いなる謎を解き明かす事が出来るのか!?

監督・脚本・製作/クリストファー・ノーラン
製作/エマ・トーマス
製作総指揮/トーマス・ヘイスリップ
出演/ジョン・デヴィッド・ワシントン、ロバート・パティンソン、エリザベス・デビッキ、ディンプル・カパディア、アーロン・テイラー=ジョンソン、クレマンス・ポエジー、マイケル・ケイン、ケネス・ブラナー

日本公開/2020年9月18日(金)全国ロードショー!
配給/ワーナー・ブラザース映画
公式サイト
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