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2020.08.07 17:30

【ネタバレありレビュー】『ハニーボーイ』痛みを愛せる日まで──息子が父に向ける、一方通行の“赦し”

  • SYO

※本記事では映画『ハニーボーイ』のネタバレが含まれます。

演者の人生とキャラクターがリンクした作品というのは、どうしてこうも泣かせるのだろうか。シャイア・ラブーフが自身の経験をもとに脚本を書き下ろし、出演した『ハニーボーイ』は、痛みと温かさが夕暮れ時の空のように混ざり合っている。

『トランスフォーマー』シリーズで名をはせるも、数々の事件を起こして“お騒がせ俳優”のイメージがついてしまったラブーフ。近年では心温まるヒューマンドラマ『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』等に出演し、復調を見せているが(第92回アカデミー賞授賞式にプレゼンターとして登場したことを覚えている方も多いだろう)、本作もまた、彼の新たなる門出を祝福するような、過去との清算と未来への希望が描かれた一作だ。

天才子役と、彼にすがる父親の複雑な関係性を見つめた本作。ハリウッドで活躍するヤングスターのオーティス(ルーカス・ヘッジズ)は、ストレスから飲酒運転で事故を起こし、更生施設へ送られる。リハビリの一環として自分のことを書き綴るように進められた彼は、10年前の日々を思い返していく。

10年前、子役として活躍する12歳のオーティス(ノア・ジュプ)は、“ステージパパ”のジェームズ(ラブーフ)に、いつも振り回されていた。“普通の父親”として愛してほしいが、商売道具のように扱われる日々……。愛と憎の狭間で、オーティスは少しずつ自立していく。しかしそれは、望んでいた形ではなかった──。

イスラエル出身の新鋭アルマ・ハレルの監督デビューである本作は、サンダンス映画祭ドラマ部門で審査員特別賞、全米監督協会賞で新人監督賞を受賞。『ワンダー 君は太陽』『クワイエット・プレイス』『フォードvsフェラーリ』と勢いづくジュプと、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』『スリー・ビルボード』『WAVES/ウェイブス』のヘッジズ、そしてラブーフの熱演のアンサンブルも、多くの評論家・観客をうならせた。

父子の物語であり、作り手たちの物語

『ハニーボーイ』では、芸能界という華やかだが毒素も強い環境に生きる父子の悲哀が、克明に描かれていく。

オーティスは映画の中で「理想の父子」を他人と演じるが、現実でその渇望が満たされることはない。父ジェームズに「稼がないと出ていくでしょ?」と涙ながらに訴える場面では、かろうじて「父子」の構造を保つために子役を続けるしかないという、悲壮な覚悟が伝わってくる。モーテルのベッドで寝転がる父の後ろ姿に、「こうだったらよかった」という妄想を重ねてしまい、我に返って1人涙をこぼすシーンも、観る者の心に突き刺さることだろう。

ジェームズはジェームズで、何者かになることを夢見るも、叶えられない人生だったことが徐々に明かされていく。かつてはスターへの道があったかもしれないが、現実は前科者の無職。「息子に食わせてもらっている俺の気持ちがわかるか?」と絞り出すシーンもまた、観る者の共感を誘う“痛み”に満ちている。ジェームズの存在はオーティスの苦悩の原因ではあっても、彼自身を「純粋悪」とは言い切れない。それがゆえに、息子は父に愛想をつかすことができないのだ。

『ハニーボーイ』は、親子の物語でありながら、持つ者と持たざる者、選ばれた者と落とされた者という“才能の有無”を描いた残酷な作り手たちの物語でもある。父が息子を愛したくても、自分が果たせなかった夢を叶えてしまった存在であり、そこには嫉妬や羨望といった感情が、常にノイズのように混じってしまう。血を分けた存在を見れば見るほどみじめになるという関係性は、どうにも救いようがなく、蜂蜜色のノスタルジックな映像美とは裏腹に、閉塞感漂う空気を醸し出していく。

過去を作品化することで、前に進んでいく

健全な父子の関係性を構築できなかったふたりを見ていくなかで、我々が期待するのは、「どういった結末をみるか?」ということだろう。しかし本作では、序盤から残酷な答えを提示してしまう。10年経った後も、オーティスには“傷”が残っているのだ。役者として成功をおさめてはいるが、彼が望んだのは父との幸福な日々であり、それは果たされなかった。だからこそ酒におぼれ、そしてそれは嫌でしょうがなかった父の姿にも重なる。

もちろん、ほのかな希望を見せてくれる美しいフィナーレが待ってはいるのだが、それにしたって10年以上である。どれほどの苦難の夜を、オーティスは潜り抜けてきたのだろうか。ジェームズの父親としての“罪”は、この先も消えることはない。失った日々は、もう戻らないのだから。つまり本作には、カタルシス以上に“苦み”の成分が強いのだ。

かつて苦しんだはずのラブーフが父親役を演じるという構造も、切なさをかき立てる。ある種の被害者であった人物が、成長して加害者を演じる。その理由はどこにあるのだろう?本作を観ていく中で感じたのは、「描くことで別れを告げたい・赦しを与えたい」というような、切望に似た感情だ。

心の奥にくすぶり続ける過去を“作品”として昇華することで、前に進む。これは私小説や自伝的小説など、多くのジャンルにみられる傾向だ。『ハニーボーイ』はそこに、「書き手が自ら演じる」という要素を加えることで、より悲劇性と味わい深さを付加している。もともとラブーフは大人になったオーティスを演じるつもりだったというが(それはそれで切なさが漂う)、ハレル監督は「演じるなら父親役」と推したという。彼女の慧眼により、この愛おしくもほろ苦い構造が構築されたというわけだ。

逆の立場に立つことで、納得はできずとも、理解はできる。本作の制作自体が、ラブーフにとっての救済になったともいえるのではないだろうか。演じることはメンタル的に負担がかかるものだったかもしれないが、ハレル監督からラブーフに向けた、セラピーのようにも感じられる。

もう戻らない日々を、善の方向に再定義する

親子というのは不思議なもので、「この人だけには認められたい」という複雑な感情がつきまとう。これまで数多くの作品で描かれてきたテーマであり、本作のラストシーンにも、オーティスの最大の望みはずっと変わらず、父に認められ、愛されることだったのだというメッセージが内包されている。

親から向けられる愛には無限の可能性があるからこそ、健全に愛されない子どもたちの人生は苦しく、痛みを伴う。もしあの頃、ジェームズがオーティスにもう少しだけでも愛情を渡せていたなら、きっと違った未来が待ち受けていたことだろう。

『ハニーボーイ』は、綺麗に整った「和解」や「相互理解」を描かない。本作に漂うのは、一方通行の「赦し」の感情だ。失った日々は戻ってこず、あの日の痛みも薄れることはあってもなかったことにはならず、満たされない想いも埋まることはない。ただ、それらすべてを含めて、父との思い出と受け止めることはできる。そしてそこに、か弱くも幽かに脈打つ愛が、確かにあったのだと悟る。

それは自己防衛かもしれないし、都合のいい“解釈”なのかもしれない。父の幻影から逃れられる日は、来ないのかもしれない。だがそれでも、痛みすらも愛するということ、「赦さない」のも「赦す」のも、自分が決めるものなのだ。

自ら始める、独りよがりな解決。
そんなハッピーエンドが、あってもいい。

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『ハニーボーイ』(原題:Honey Boy)

ハリウッドで人気子役として活躍する12歳のオーティスは、いつも突然感情を爆発させる前科者で無職の“ステージパパ”ジェームズに振り回される日々を送っていた。そんなオーティスを心配してくれる保護観察員、安らぎを与えてくれる隣人の少女、共演する俳優たちとの交流の中で成長していくオーティスは、新たな世界へと踏み出すのだが──。

監督/アルマ・ハレル
出演/ノア・ジュプ、ルーカス・ヘッジズ、シャイア・ラブーフ
脚本/シャイア・ラブーフ
2019年/アメリカ/95分/シネスコ/5.1chデジタル/字幕翻訳:栗原とみ子/PG12

日本公開/2020年8月7日(金) ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次公開
配給/ギャガ
公式サイト
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