Column

2020.07.17 8:00

【単独インタビュー】『リトル・ジョー』ジェシカ・ハウスナー監督が語る、不快感の描き方

  • Atsuko Tatsuta

※本記事では映画『リトル・ジョー』の若干のネタバレが含まれます。

第72回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に選出されたジェシカ・ハウスナー監督のボタニカルスリラー『リトル・ジョー』が7月17日(金)に日本公開されます。

人間によって生み出された新しい植物が、人知を超えた進化を遂げたとしたら……という、まったくあり得ない話ではないテーマに挑んだ本作。バイオ企業で研究員として働くシングルマザーの主人公アリスは、人を幸せにする新種の花の開発に成功しますが、間もなく同僚や息子のジョーなど、周囲の人々に異変を感じ始めます。花粉を吸い込んだせいかもしれないと疑いを持ち始めたアリスでしたが、次第に追い詰められていき──。

監督を務めたジェシカ・ハウスナーは、長編デビュー作『Lovely Rita ラブリー・リタ』(01年)で注目を浴びたオーストリア出身の気鋭。レア・セドゥ、シルヴィー・テステューといったフランスの旬の女優を起用し、ベネチア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞などを受賞した『ルルドの泉で』(09年)は日本でも話題となりました。

エミリー・ビーチャム、ベン・ウィショーら英国の実力派俳優を迎えた『リトル・ジョー』は、ハウスナーにとって長編第5作目にして初の英語映画。第72回カンヌ国際映画祭でビーチャムが女優賞を受賞するなど高い評価を受けており、美しい鮮烈な色彩と全編を覆う不穏な雰囲気、サイエンススリラーという手法を用いて、現代人の心の奥底に眠る不安を呼び起こす心理劇は、ハウスナーの最高傑作とも言えるでしょう。

ジェシカ・ハウスナー(カンヌ国際映画祭にて)Photo by Valery Hache / AFP

日本公開に先立ち、ハウスナーが拠点としているオーストリアより、Fan’s Voiceのオンラインインタビューに応じてくれました。

──『リトル・ジョー』はある意味サイエンスフィクションと言えますが、このジャンルに挑戦しようと思った理由はなんですか?
SFはとても好きなジャンルです。ホラーも好きですけど、ちょっと怖がりなので、観るのはなかなか大変です。それからファンタジーというジャンルも好きで、『リトル・ジョー』を作るに当たって、『ボディ・スナッチャー』にはとても影響を受けました。50年代のドン・シーゲル版も70年代のフィリップ・カウフマン版も、両方とも好きです。もちろん、小説(ジャック・フィニイのSF「盗まれた街」)もね。ストーリーの背景に哲学があるところが気に入っています。私たちの社会がどんなものであるかを描いているというか、もっと言えば、私たちがいかに周りに影響を受ける存在なのかを描いているからですね。

アリス(エミリー・ビーチャム)

──SFスリラー/ホラーといえば、古典『フランケンシュタイン』では永遠の命を求めてクリーチャーが創り出されますが、今回は“幸福”を求めて美しくも怪しい花が創り出されますね。
『フランケンシュタイン』に関しては、創造主と創造物との関係に興味を惹かれましたね。『リトル・ジョー』との関連性で言えば、女性を主人公に女性の視点で描くことも、『フランケンシュタイン』と関係があると言えます。子どもの頃、クリスマスに両親が”世界の偉大なる発明者たち”という本をプレゼントしてくれました。目次を見ると、キュリー夫人以外は全員男性でした。そういう男性社会で私も育ってきました。今は変わりつつありますが、私は、女性が“創り出す”物語が必要だとずっと思ってきました。メアリー・シェリーも、実は女性科学者を主人公にしたかったんじゃないかと思うんです。でもその当時に本を売ろうとしたら、女性の科学者が怪物をつくるという物語は不可能だから、男性の科学者になったのではないかとさえ思います。でも、女性が子どもを産むということを考えれば、創造というのは女性的概念ではないでしょうか。

──“幸福”という概念についてはどう思いますか?幸福とはとても個人的で、さらに感覚的なもの。数字でも表せません。(ハウスナー監督の)『ルルドの泉で』(09年)も奇跡を通して幸せを求める人たちの話でしたが、あなたにとって幸福とは?
幸せとは何かを考えたときに面白いと思うのは、まず、人は概念に突き動かされているということです。『ルルドの泉で』でも、信仰心の裏にあるのは、ついには神様が自分たちを救ってくれるんじゃないかという期待。それで人々はルルドの泉詣でをするのです。幸福は現代的な概念です。現代人は皆、幸せになるべきだと思っています。昔に比べて、幸福を求める気持ちに突き動かされて行動しているのです。私は、こうした世界や世界を形作るものは何なのかを、映画で表現したいと思っています。

──安易に幸せを求める、現代社会への風刺ともいえますか?
風刺と言えるかどうかはわかりませんが、なぜ人間がそんな行動をしているのかといった謎を暴こうしているのは間違いありませんね。幸福などは実は自分たちの頭の中だけにあるものだということを、人間は忘れがちです。つまり、人は自分が求めているもの、信じているものを真実だと決めてしまう。私は、本当の真実と人が望む真実との関係に興味があるのです。先ほど”幸せとは?”という質問をされましたが、カンヌ映画祭でこの作品を上映した後、とあるジャーナリストが、「幸せを見せます」と、iPhoneで海辺の美しい別荘を見せてくれました。これが“幸せ”なんですね。海辺の家が幸せなのではなく、iPhoneの中にある海辺の別荘の写真が、彼にとっての幸せ。つまり、海辺の家に行ったときにどれほど美しい体験ができるのか、その期待感が幸せなのです。実際には、行ったときに雨が降っていたり、石につまづいたりと、せっかくの体験を損なうことだってあるかもしれない。そう、だから幸せという概念は、“iPhoneの中の写真”なのです。

──人に影響を及ぼす”なにか”を、真紅の花にしようと思った理由は?
膨大なリサーチをした末、花に決めました。いろいろな案を検討しました。リンゴもそのひとつでした。種がなくても実がつくれるのが最高だと思ったのですが、リンゴは人間が能動的にかじるという行為が必要となるので、やめました。花であれば、気が付かないうちに香りを吸い込んでしまうこともある。それがよりストーリーに機能すると思いました。人は気が付かない内に何か影響を受けているのかということを、掘り下げたかったからです。

──先ほど、女性の科学者を主人公にしたかったという話がありましたが、母親と子どもの関係も、この物語の重要なテーマです。アリスは仕事に忙しくて、息子に十分時間を割いてあげられない、満足に食事も作ってあげられないという罪悪感を感じています。けれど、花の影響によって、彼女は“良い母親にならなければいけない”という強迫観念を捨て去ります。あなた自身、「女性は良い母親でいなければいけない」という社会通念に反発はあるのでしょうか。
ええ、その通り。あなたが“良い母親であるという概念を捨て去る”という表現をしてくれたのは嬉しいですね。アリスは、概念を捨て去るだけで、子どもを捨て去ったわけではありません。光り輝く母親像を彼女が捨て去ったことを理解してもらうのは、この映画にとってとても重要です。しかもその「捨て去る」行為というのは、私たち女性がしなければならないのです。仕事をすることに罪悪感を感じなくなるような社会が来るのを待っているのは、すごい長く時間がかかります。母親は子どもを育てるためだけに存在しているというのは、だいたい今の時代では不可能だし、ゴールとしても魅力的ではありません。女性はこの概念を捨てなければなりません。私には10歳になる息子がいるのですが、いつも私は自分が父親だと思うようにしています。そうすれば、良い母親でなければいけないという強迫観念を忘れることができる。自分は子どもを愛しているし、仕事も献身的にやっているんだと思えるのです。

──エミリー・ビーチャムは、そうした葛藤を抱えたシングルマザーのアリスを見事に演じましたね。彼女の同僚役のベン・ウィショーもまた、良い人なのか悪い人なのかわからない、独特の存在感を放っています。
エミリーは、『ダフネ』(17年・未)という映画での演技を観て感銘を受けました。ジーナ・ローランズのような資質を持っていると思います。完全にイッてしまっていて共感を感じさせない役でも、観客が決して嫌いになれないようなものを彼女は持っています。これは特に主人公を演じる上で大切な資質です。今回のアリスという役は、観客とずっと距離を置いたままのキャラクターです。けれど、私たちに彼女のことをずっと観ていたいと思わせる何かがあります。私の映画では、表現するキャラクターよりも、感情を隠すキャラクターが多いですね。感情をあまり表に出さないような。またベンの場合は、曖昧さが良いなと思っている俳優です。ハンサムでナイスガイだけれど、同時に、そこの角を曲がったら急に危険な人に変わってしまうかもしれない。そういうテンションが良いと思っていました。

右:クリス(ベン・ウィショー)

──あなたは芸術一家に生まれ、特にアーティストのお父様からクリエイターとして影響を受けていると聞いていますが、具体的にはどういうところだと思いますか?
父だけでなく母も画家で、ずっと両親がアートの話ばかりしているという環境に育ちました。一緒に育った姉は、衣装デザイナーで私の作品にもいつも衣装デザイナーとして参加しています。子どもの頃から、食事のときもアートの話ばかりでした。両親が最も興味のあるトピックですからね。私も姉も、そんな両親にとても強い影響を受けていると思います。家では、時間があったら家族で海辺にバカンスに行きましょうといったことはなく、その代わりにマドリッドに行って、2日間プラド美術館を回ったりしていました。ゆっくりと一つひとつの絵画について詳細に議論しながらね。アートの見方とかビジュアルの解釈については、間違いなく親から影響を受けています。スタイルという意味では、また違う影響があるとは思いますけど。

──実験映画作家のマヤ・デレンさんからの影響も大きいと聞いています。どのようなきっかけで彼女を見出して、影響を受けたのですか?
ウィーン映画アカデミーに通っていたとき──25年前くらいですね、先生が彼女の作品を見せてくれました。感服しました。フィルムメーカーになってからは、より影響を自覚するようになりました。独特の編集方法や撮影などに影響を受けています。SFXやVFXなどをまったく使うことなく、映画的な手法のみで、つまりカメラポジションや編集のみで、独特の世界を作り上げるところ。例をあげると、廊下で女性の背中が暗がりに消えていく。自分の姿を自分で見ている。そういったシンプルな表現で女性がふたりいるかのように見せたり、不穏な空気や恐ろしい雰囲気を作り上げることができるのです。私もそういった表現方法を見出そうと、いつも工夫しているのですがね。つまり、通常のパターンだったり、普通予測するパターンをちょっとずらしたり歪めたりすることで生まれる恐怖を探している。言い換えれば、日常をずらすことで生まれるぎこちなさとか、ざわざわした感じのようなものを表現したく思っています。

──伊藤貞司さんの音楽を使用したのも、マヤ・デレンさんの影響でしょうか。伊藤さんはマヤさんの夫だった作曲家ですね。
ええ、そうです。マヤの作品を知った頃から、音楽面もいいなと思っていて。先ほど撮影の話をしましたが、雰囲気を作り上げるのには、サウンドの役割も大きいですね。マヤの作品で使われていた音楽は、怖いというと言い過ぎですが、不穏で不吉で不気味な感じを醸し出していて、『午後の網目』(43年)という作品では、階段を歩くときに木のような音がしたり、ナイフがテーブルに当たるときにも似たような音がするのですが、それはおそらく和太鼓。そうした音を今回の映画のサウンドデザインで求めていました。なので、そのまま伊藤貞司の音楽を改めて聞いてみようと思って「水車」というCD作品を手に入れて、その中に収録されている3曲が今回のサウンドデザインの中心になっています。

──映画には、観ていると(あるいは観た後に)心が温かくなる、気持ちよくなるというタイプの作品もあります。あなたの作品はむしろ、不穏な気持ちにさせますね。
面白い表現ですね、メモさせて!確かに感情というのは違う資質を持っているので、不吉だったり、いらっとしたエモーションを意図的に喚起させようとしています。それはホラーとも違うし、シンプルなユーモアとも違う。イリテーション(苛立ち)とアイロニー(皮肉)を混ぜたような感情。それがどこから来ているかといえば、自分が本当に欲しいものを得ようとする人の試みは無価値であり、虚栄心に突き動かされているものだ、という理解からです。私の作品は、そういったことを描いています。言い換えれば、人間の存在の無益さを理解することによって生まれる、不快感なのです。

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『リトル・ジョー』(原題:Little Joe)

監督/ジェシカ・ハウスナー
出演/エミリー・ビーチャム、ベン・ウィショー、ケリー・フォックス、キット・コナー ほか
2019/オーストリア・イギリス・ドイツ/105分/カラー/ビスタ/5.1ch/英語/日本語字幕:金関 いな

日本公開/2020年7月17日(金)アップリンク渋谷、アップリンク吉祥寺ほか全国順次ロードショー!
配給/ツイン
公式サイト
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