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2020.02.28 8:00

【ネタバレありレビュー】『レ・ミゼラブル』“花の都”の現実──痛みと絶望の渦中で生まれた、現代の「民衆の歌」

  • SYO

※本記事には映画『レ・ミゼラブル』のネタバレが含まれます。

第72回カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞、第92回アカデミー賞で外国語映画賞にノミネート。2019年から2020年にかけて、『パラサイト 半地下の家族』(19年)と映画賞を競い合った力作が公開を迎える。現代のフランスを舞台に、“民衆の叫び”を描いた『レ・ミゼラブル』(19年)だ。

ミュージカル映画の原作にもなった、ヴィクトル・ユゴーの小説と同じ名を冠したこの映画は、原題が意味する「悲惨な人々」をまさしく体現した一作。パリ郊外のモンフェルメイユで起こった事件が、街にくすぶる民衆の怒りに火をつけていくさまを、鋭利なタッチで抉り出す。

フランスがサッカーのワールドカップで優勝した2018年夏。犯罪多発地区であるモンフェルメイユで、「犯罪防止班」に配属されたステファン(ダミアン・ボナール)。彼は、仲間と共に街をパトロールし、綺麗ごとでは立ち行かない“リアル”を目撃していく。そんな中、ある少年が起こした「サーカスの子ライオンを誘拐する」という事件を発端に、街を仕切るいくつかのグループが一触即発の状態に陥る。さらに、犯人の少年をステファンの仲間グワダ(ジェブリル・ゾンガ)がゴム弾で撃ってしまい、その様子をドローンで撮影されていたことから、事態はますます悪化してしまう……。

カンヌ国際映画祭の審査員賞と言えば、『そして父になる』(13年)、『Mommy/マミー』(14年)、『ロブスター』(15年)、『ラブレス』(17年)、『存在のない子供たち』(18年)とメッセージ性の強い傑作が選ばれてきた。本作もまた、ドキュメンタリー作品を手掛けてきた俊英ラジ・リ監督の実体験をもとに、フランスに暮らす多様な人種がぶつかり合い、巨大なうねりを形成していくさまを骨太に描き出している。緊迫感、怒り、やりきれなさ──鑑賞中も、そして鑑賞後も、これらの“強い”感情が心から離れることはないだろう。

意図的に仕組まれた「個の消失」

『レ・ミゼラブル』がどういった映画なのか?を端的に表すなら、ルックは『トレーニング デイ』(01年)や『エンド・オブ・ウォッチ』(12年)のような、警察目線の「密着24時」的なサスペンスだ。犯罪地域で日々パトロールする警官たちの危険な日常が描かれる。多様な人種や宗教が入り乱れるこの街では、厳格なルールは存在しない。不良少年・少女の補導は日常茶飯事で、バッタものを売る露天商の取り締まりや“街の裏の顔”との接触まで、治安を維持するために様々な動きが求められる。

警官たちが、明確な「正義」を掲げない点──「毒を以て毒を制す」ではないが、彼らが暴力性を秘めている点、犯罪防止班のリーダー、クリス(アレクシス・マネンティ)が言う「絶対に謝るな」「俺が法律だ」などのセリフ、その環境に足を踏み入れた“新参者”の信念と衝突するという展開も、『トレーニング デイ』を彷彿とさせる。一見するとゴリゴリの社会派の作品に思えがちだし、それは本作の本質ではあるのだが、作り自体は現代的なダーク系の刑事サスペンスとして非常に整っている。

ただ、本作には一つ興味深いシーンが中盤に挟まる。それは、視点の分散だ。先に挙げた「警官による市民の攻撃」を経て、微妙なバランス下にあった街の均衡が崩れ始める。その際に、これまで主に「警官側」のみだった視点が「警官×3」「子どもたち」「“市長”と呼ばれる街の実力者」「情報通」に枝分かれしていくのだ。ここで初めて警官たちの“生活”が描かれ、彼らもまた混迷する社会の被害者だったことが痛々しく伝わってくる。

映画自体のテイストの話をするなら、『トレーニング デイ』から『クラッシュ』(04年)へと移り、一気に『シティ・オブ・ゴッド』(02年)や『存在のない子供たち』のエッセンスがなだれ込んでくるような動きだ。映画の前半の構造としては警官 vs. 市民なのだが、後半に行くにしたがってその構造は崩れる。対立関係は変わらないのだが、主眼が特定多数になるため、物語自体の“肩入れ”がなくなるのだ。主人公というものが消失するような感覚に近い。

ここには伏線があって、それは冒頭部分。『レ・ミゼラブル』は、今回の事件の発端であるイッサ(イッサ・ペリカ)が国旗を体に巻き付けた状態で歩いてくる姿を捉えたカットから始まるのだが、この時点では視点はイッサだ。しかし、彼らが街に繰り出し、ワールドカップの決勝戦を民衆の一員として見届け、優勝後に感情が爆発するとき──彼らの個々の存在は消え失せ、「フランス国民」という一つの共同体に変貌する。これは“喜”のモデルケースだが、本編では全く逆の事態、つまり“怒”や“哀”の「個の消失」が起こる。

ワールドカップというイベントによって個人のうやむやが雲散霧消し、ハッピーな“フランス人の集団”になるのが、冒頭のシークエンス。それに対し、警官の発砲によって均衡が崩れ、物語の主人公が複数人に拡散し、作品自体の視点が“悲惨な人々(レ・ミゼラブル)”というひとくくりになってしまうのが物語の後半。同じ「個の消失」でも、意味合いはまるで逆だ。実際には、後半に行くにしたがって個々の溝はより深くなってしまっているのだから。

名もなき者たちに残された、「歩み寄り」という希望

さらに興味深いのは、イッサが警官をはじめとする大人たちに復讐しようとする最終盤。ここでは、多くの子どもたちが黒いフードをかぶり、“兵隊化”する。これもまた、冒頭のワールドカップの熱狂と表裏一体の関係性といえる。彼ら一人ひとりの想いは消え去り、リーダーの“大志”が個人の“動機”へと変わる。これはスポーツであればポジティブなものだが、犯罪にすり替わった途端に恐るべきものとなる。

象徴的なのは、リーダーが見えなくなった瞬間、フードをかぶった子どもたちの集団が、緊張の糸が切れたように幼い表情へと変わること。スポーツと暴動の共通項──人を動かすのも狂わせるのも、熱なのだ。

スポーツによって愛国心が芽生え、瞬間的にでも団結状態になった民衆は、ハレの日が終わった瞬間にそれぞれの日常に引き戻される。貧富や格差といったボーダーを取り去ってくれるのがスポーツだとしたら、檻に閉じ込めるのが日常だ。どちらが長いのか、言うまでもない。イッサが子ライオンを誘拐する→サーカスに連れ戻される→檻に入れられる、という流れは、そのままワールドカップの非日常が終わってしまった彼らの状態を示しているといえよう。

ただ、『レ・ミゼラブル』は決してバッドエンドではなく、最後に「歩み寄り」の希望を仄かに映し出す。火炎瓶を持ったイッサを、必死に説得するステファン。瓶が投げられるのか、それとも振り上げた手を下ろすのか、観客が知ることはできない。ただ1つ言えることは、経済が劇的に好転し、社会が明るくならない以上、今ここに生きている人々が自ら歩み寄るしかないという残酷な事実だ。

奇しくも、物語的な“個人の消失”によって、警官と市民の関係性は崩れ、共に「名もなき者たち」へと移行した。どちらも同じく、不寛容な社会の中でもがき、息を吸おうとあえいでいる者たちだ。混沌に突き落とされた状態ではあれど、両者がゼロ地点に降り立ったということでもある。壁がなくなった今こそ、腹を割って話せるのではないか──。

移民を犬に置き換えた『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲』(14年)の深遠なラストや、テロ問題と不寛容な社会を超能力者の視点で見つめた『ジュピターズ・ムーン』(17年)のように、絶望の中でも手を伸ばそうとする確かな想いが、本作には克明に宿っている。

ドローン撮影が象徴する、貧者と富者の曖昧な境界線

劇中で「2005年パリ郊外暴動事件」が言及されるように、『レ・ミゼラブル』は現代史に根差したドキュメント的な一作ではあるのだが、それだけではカンヌで審査員賞は獲得できないだろう。余談だが、本国フランスでは初日動員7万人超、初登場ランキングは『アナと雪の女王2』(19年)に次ぐ2位だったというから、作品の注目度が窺い知れる(公開17日目には、フランス国内の観客動員100万人を達成)。

『レ・ミゼラブル』には、映画的な、いやむしろ映画でしか達成できない“力”が備わっている。それはこれまでに述べてきたような構造的な巧みさであったり、他人事と片付けられない同時代性、ショッキングなストーリー、観る者の感情を揺さぶる熱であるだろう。

その中で、カメラワークについても言及したい。冒頭で述べたとおり、本作ではドローン撮影が物語としても、映像的にもキーになっている。物語的なことを言えば、ドローンを手にすることで子どもでも容易に盗撮ができるようになった危険性などが描かれるのだが、これは一般市民が官憲を告発する“力”を得たことのメタファーでもあるだろう。劇中では子ライオンの誘拐犯を突き止めるのにInstagramやFacebookが使用されるが、今や誰もが発信者の時代だ。いち個人が著名人のTwitterでの過去のつぶやきをサルベージして晒し、失脚に追い込むような事態が頻繁に起こっているように、声なき者・弱き者の下克上が起こりやすい土壌が出来上がっている。

そしてこれもまた「映画界の下克上」といえるが、ビッグバジェットの作品でなくても、ドローン撮影で迫力ある映像を生み出すことが可能になった。本作では冒頭の凱旋門を意味深に見つめるシーンから、街を俯瞰で眺めるカットが頻発し、露店や団地、食堂に押し込められた民衆の怒りと格差の隔絶感をありありと映し出す。と同時に、編集を含め、大作を見慣れたライトな映画層にも入ってきやすい映像的な工夫が見られる。これらの技術的な部分も、本作が批評家層だけでなく一般層にもちゃんと届き、支持されている理由の1つだろう。

これらの「俯瞰する映像」は、『存在のない子供たち』や『グッド・タイム』(17年)にも通じ、街が1人の主人公であることを感じさせる。同時に、彼らがこの状況に陥ったのは保護者がどうだとかミニマムな問題ではなく、もっと大きな環境──経済的、社会的問題であることを示してもいる。例えば人種差別的なクリスや、理由もなく子ライオンを盗んだイッサの性格を「歪んでいる」と見るか、どうか。『ジョーカー』(19年)や『パラサイト 半地下の家族』が突きつけたように、“悪”は社会から生まれいずるのだ。そしてそれを「悪」と言い切れる社会では、もうない──。

貧富の差は世界中にあり、依然として改善の余地はない。ただ、貧者がSNSで世界配信し、ドローンの“目”で大空を飛び回るように、貧者と富者、弱者と強者の見分けはつかなくなりつつあるというねじれ構造。二元論的な単純な視点では片づけられない、複雑化した現代社会の縮図。『レ・ミゼラブル』が内包する“混沌”は、カメラにも色濃く表れているのだ。

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『レ・ミゼラブル』(原題:Les Misérables)

パリ郊外に位置するモンフェルメイユ。ヴィクトル・ユーゴーの小説「レ・ミゼラブル」の舞台でもあるこの街も、いまや移民や低所得者が多く住む危険な犯罪地域と化していた。犯罪防止班に新しく加わることとなった警官のステファンは、仲間と共にパトロールをするうちに、複数のグループ同士が緊張関係にあることを察知する。そんなある日、イッサという名の少年が引き起こした些細な出来事が大きな騒動へと発展。事件解決へと奮闘するステファンたちだが、事態は取り返しのつかない方向へと進み始めることに……。

監督・脚本/ラジ・リ
出演/ダミアン・ボナール、アレクシス・マネンティ、ジェブリル・ゾンガ、ジャンヌ・バリバール
2019年/フランス/フランス語/104分/カラー/シネスコ/5.1ch

日本公開/2020年2月28日(金)新宿武蔵野館、Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国ロードショー
配給/東北新社、STAR CHANNEL MOVIES
公式サイト
©SRAB FILMS LYLY FILMS RECTANGLE PRODUCTIONS