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2020.02.14 12:00

【ネタバレありレビュー】『影裏』が示した、喪失との対話──映像と心情の融和

  • SYO

※この記事には映画『影裏』のストーリーに関するネタバレが含まれます。

水のようにとらえ難く、それでいて心を浸し続ける映画だ。『るろうに剣心』シリーズの大友啓史監督が、自身の故郷・盛岡が舞台の芥川賞受賞作を実写化した『影裏』(20年)は、134分をかけて一滴ずつ、観る者の体内に沈殿してゆく。

綾野剛、松田龍平、筒井真理子、中村倫也、平埜生成、國村隼、永島暎子、安田顕といった日本映画界を代表するキャストが集結。脚本には『愛がなんだ』(19年)の澤井香織、撮影は黒沢清監督の作品で知られる芦澤明子と、スタッフ陣も盤石の布陣をそろえた。

本作の舞台は、震災前後の岩手県・盛岡。会社の転勤でこの地にやってきた今野(綾野)は、同い年の同僚・日浅(松田)と知り合う。ルールに縛られずに飄々と生きている日浅に惹かれた今野は、2人で酒を酌み交わし、釣りに興じるなど距離を詰めていく。いつしか今野にとって日浅は、慣れない地でただ1人、心を許せる存在となっていたが、日浅はある日、連絡もなく会社を辞め、彼の前から消えてしまう……。

以上が、作品の前半部分の主なあらすじだ。後半になると、一度は今野の前に戻ってきた日浅が再び失踪し、今野が彼の知られざる“裏の顔”を知っていく、という物語が進行する。大切な人は何者だったのか?人が人を信じたいと願う気持ちは、どうしてこうも哀しいのか?といった部分を掬い取れば、綾野が出演した『怒り』(16年)や松田出演の『羊の木』(18年)が思い浮かぶが、本作では“殺人”といった明確な悪意は描かれない。

もっと慎ましく、静謐で曖昧な悲哀。『影裏』は、親しい人が日常から“消える”というのはどういうことかを、繊細なタッチで表現した映画だ。大友監督が「多くのことを敢えて曖昧にした」と語るように、劇中には多くの“象徴”や“予兆”が隠されており、観る者の心の在り様によって変容していく。

二面性を示す、映像ならぬ“影像”の表現

『影裏』は、実に示唆に富んだ映画だ。水や風、火や光といった自然現象がすべて意味を持った記号として配置されており、そのバランスや色合いによって登場人物の心情や関係性の変遷を象徴、或いは予兆している。そういった意味では、カメラの“目線”が非常に雄弁であり、文学が持つ“行間の妙”を映像言語に正しく変換した見事な作品といえる。

最も目に付く部分は、光と影の表現だろうか。『影裏』では冒頭、間接照明が意図的に配置され、ランプの明かりや車のヘッドライトが観客に向かって照らされる。その結果、画面には光/闇のコントラストが生まれ、この映画自体が人間に内在する“明暗”を描いているのだ、ということが視覚的に伝わってくる。

言語で説明するのではなく、映像の中に意味を忍ばせるクレバーな演出は、ドキュメンタリー出身の大友監督らしい筆致といえる。今回は「不穏さ」を出すために、『トウキョウソナタ』(08年)、『散歩する侵略者』(17)など黒沢清監督の世界観の構築には欠かせない撮影監督の芦澤、照明の永田英則に打診。両者の個性は、冒頭から色濃く感じられる。

異常といえるほど暗い店内で、大友監督ならではの微細な演技をスクリーンに焼き付けんとする寄りのカット。陰影が付いた人物の顔には、微細な表情の変化もはっきりと刻まれる。冒頭、薄暗い店内で今野が見せる、目と口元のわずかな歪みを映し出したカットや、日浅の父親(國村)が刹那にじませる凄みなどは、「光と影」の差をテーマの代名詞にまで落とし込んだ象徴的なシーンといえよう。

大友啓史監督

エロスを予感させる表現、水のモチーフが示すもの

そこはかとなく散らされているエロスも、『影裏』の特長だ。こちらは目線と小道具、各カットの余韻によって表現されている。まず、今野の下着姿を映すシーンが冒頭からかなりの頻度で登場する。これは回想シーンに入った瞬間に画面が明るくなるシーンで観られ、明らかに性的なニュアンスをスイッチとして配置している。

ボクサーパンツを履いた今野の下半身を丹念に映し出したシーンを経たのちは、日浅と今野が同じ銘柄のコーヒーを飲む、吸いかけのタバコをもらう、ザクロを食べ合う、といった展開が続き、観客の中に“予感”を高めていく。桃を食べるシーンも登場するが、『君の名前で僕を呼んで』(17年)を観ている人ならば、ピンと来るのではないか。つまり、これは親友が消えた物語ではなく、愛した人が消えたラブストーリーなのだ、ということが、観ているうちにわかってくる構造になっているのだ。

その予感は、雨の日に今野が日浅にキスをするシーンで確信へと変わる。このシーンでは蛇が登場するが、イヴとアダムをそそのかしたサマエルと見ることもできそうだ。一線を越えてしまった今野は、日浅に拒否されてしまい、以降は少しずつ2人の関係がぐらついていく。

また、今野の旧友である副島(中村)の登場によって、彼の「タバコを止めた」という過去が、恋愛がらみの何かだったと示されるシーンも秀逸だ。本作では、この場面に代表されるように奥ゆかしさが常に伴い、観客を一種の“読者”として、「行間を読ませる」仕掛けがなされている。

水の表現も、本作の重要なモチーフだ。大友監督は「日浅の行動と水の変容が並行して進んでいく物語になっている」と語っており、劇中に何度も登場する釣りのシーンでは、今野が徐々に深くまで進んでいくことで、日浅にとらわれていくさまが示される。また、雨や雷といった天候も、水の表現の発展形として配置(こちらは、大友監督が松田の演技に触発されて生まれた表現だという)。アカデミー賞作品賞を受賞した『パラサイト 半地下の家族』(19年)では「水は上から下に流れる」という意味を込め、格差を示すメタファーとして水を使っていたが、本作ではキャラクター自体を表現するものとなっているのだ。

他にも、色も重要。ザクロの赤と焚き火の炎の色合いが近く、さらに真っ赤な夕日とリンクする。この赤が劇中に登場する際には今野と日浅の関係に大きな変化が起こり、真っ赤な夕日が海に沈むシーンは、日浅が「震災で亡くなったかもしれない」と思われるシーンの近くで登場する。また、劇中で苔は「死んだ木に生える」ものとして扱われるが、同時に「一度踏めばダメになる」ものでもあり、2人の悲劇的な運命を予見しているよう。このように、画面におけるあらゆる構成要素が、私たちの感性に絶え間なく訴えかけてくるのだ。

愛する人の全部を把握することはできない

このように、『影裏』は映像内に隠された情報が多い分、これ見よがしなセリフは少なく、静謐で上品な仕上がりになっている。同時に、観る者の探求心を刺激する映画でもあると言えよう。直接的な表現の寡黙さが、かえって雄弁に“何か”を物語っているのだ。

このとらえどころのなさは、作品全体の魅力でもある。物語を通して、我々は日浅が何を考えているのか、思考のロジックが一切わからない。日浅を演じる松田は『散歩する侵略者』『羊の木』など、「読ませない」キャラクターを得意としているが、本作では輪をかけてミステリアスな雰囲気を醸し出している。というのも、ある段階で日浅が物語自体から消えてしまうからだ。残された今野は、日浅の残り香を追うように家族や知人の元に押し掛け、自分が知らなかった彼の一面を目の当たりにしていく。借金をしていた、学歴を詐称して父親からお金をだまし取っていた、彼の人生は嘘で固められたものだった……。

愛する人の、何を知っていたのだろうか?この問いは中盤以降、アクセルを踏むように観客の心にのしかかってくることだろう。この物語はあくまでフィクションだが、大震災を日浅の失踪と絡ませることで、物語に現実感を付与している。小さなコミュニティ内の物語であっても、「無関係」と切り捨てられないバランス感覚が実に巧みだ。

たとえば共働きの夫婦や恋人は、日中に配偶者が何をしているのかほとんど知らない。妻にリストラされたことを告げられない夫を描いた『トウキョウソナタ』然り、仕事にのめり込んだ結果、家庭が崩壊する『凶悪』(13年)然り、他人同士が“家族”という形態に見せかけていた『理由』(04年)や『万引き家族』(18年)、シェアハウスの怖さを描いた『パレード』(09年)もそう。私たちの多くは、一番そばにいる人の全ては把握していないのだ。「人を見るときは、影の一番濃いところを見るんだよ」という日浅のセリフは、現実を鋭く言い当てつつ、「全ては分からない」哀しみをも表しているよう。

ある日いきなり、親しかった人がいなくなる。生きているか死んでいるかもわからない。後になって色々な話を聞かされ、自分が大切に思っていたその人の輪郭が歪んでゆく。何も知らなかったのだと思い知らされたとき、自分に出来ることは何なのだろう?『怒り』や『楽園』(19年)などナイーブな演技に定評のある綾野は、「信じる」と「疑う」の狭間で苦悩する今野の“揺れ”を、震えるような細やかさで表現している。撮影中は「“佇む”というのを忘れてはいけない」と決めていたというが、状況の変化にダイレクトに反応してしまいながらも、自己防衛のために抗おうともする今野の人間臭さ、アンビバレントな生々しさは、非常に共感できるものだ。

ただ、『影裏』はそこからさらに、心の深奥へと踏み込んでいく。本作が驚異的なのは、今野が最終的に「信じる」を選ばないところだ。「信じる」「信じない」の二元論から脱却し、全てを受け入れて歩んでゆこうと決めるということ。アカデミー賞脚本賞受賞作『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(16年)は、喪失を乗り越えられない現実を見つめた。『スリー・ビルボード』(17年)は、罪を赦す難しさと尊さを描いた。どちらも物語的なカタルシスを排した、人間の真実の感情だ。

『影裏』もまた、分かりやすい解決を提示しない。清濁併せ飲み、そのままにする。そうして時が過ぎてゆく。これから何度も思い出し、そのたびに苦しい想いをするはずだ。だがやがて苔が生え、喪失を覆いつくすだろう。そんな幽かな意志を感じさせるラストシーンは、絶望の渦中にありながらも、不思議な安らぎに満ちている。

日浅が善人でも悪人でも、もうかまわない。ただ、確かに生きていたという確証があればいい。誰が何と言おうと、あの頃2人で過ごした時間は“本物”だったのだから──。本作はきっと、失恋のラブストーリーであり、だからこそ私たちが経験してきた別れや後悔と強く結びつき、心を揺さぶる“波”へとなるのだ。

痛みを思い出へと変えるとき、人は初めて前に歩き出せる。

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『影裏』

今野は、転勤で移り住んだ岩手で日浅に出会う。慣れない地でただ一人心を許せる存在。まるで遅れてやってきたような成熟した青春の日々に、今野は言いようのない心地よさを感じていた。しかしある日、日浅は突然姿を消してしまう。日浅を探し始めた今野は、日浅の父に捜索願を出すことを頼むが、何故か断られてしまう。そして、見えてきたのは、これまで自分が見てきた彼とは全く違う別の顔。陽の光の下、ともに時を過ごしたあの男の“本当”とは?

出演/綾野剛 筒井真理子 中村倫也 平埜生成/國村隼/永島暎子 安田顕 松田龍平
監督/大友啓史
脚本/澤井香織
音楽/大友良英

日本公開/2020年2月14日(金)全国ロードショー 
配給/ソニー・ミュージックエンタテインメント
配給協力/アニプレックス
公式サイト
©2020「影裏」製作委員会