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2019.12.20 8:00

【ネタバレありレビュー】『テッド・バンディ』殺人鬼映画の“常識”を覆す、クリーンな絶望

  • SYO

※この記事には映画『テッド・バンディ』のストーリーに関するネタバレが含まれます。

いったい自分は、何を期待していたのだろうか──。本作を鑑賞後、最初に脳裏に浮かんだ感情だ。

決して、この映画が面白くないというクレームなんかではない。むしろその逆で、完全に魅了されてしまった。周到に仕掛けられた「情」に、まんまとほだされてしまった。あろうことか、犯罪史に永遠に残る連続殺人犯をほんの一瞬でも「信じて」しまった……。

1970年代のアメリカを震撼させた連続殺人鬼、テッド・バンディ。若い女性ばかりを狙い、30人以上もの命を無慈悲に奪った男だ。遺体を検死した捜査官は、あまりの異常性に目を覆ったという。頭蓋骨が砕けるほど殴られ、或いは切り刻まれ、肌には無数の歯形が付き、レイプまでされていた。血の通った人間の所業とは思えない、陰惨すぎる殺害事件。その容疑者とされたのが、見目麗しい美青年だったという衝撃。

Photo credit: Brian Douglas

ハンサムで人当たりの良いテッドは、裁判が異例のテレビ中継を迎えると、ファンが急増。傍聴席には女性が押し寄せ、多くの人々が冤罪と信じて疑わなかったという。なぜか。事件の内容と、彼の外見があまりにかけ離れていたからだ。

人は見た目で判断できない──本作が描くのは、そんなありきたりな注意喚起ではない。もっと根幹にある、人が人を信じたいと思ってしまう妄執に似た渇望だ。ある者は恋愛感情を、ある者は狂信をこの男に注ぐ。ただそれは、能動的に見えて、「操作」されている。

『テッド・バンディ』(19年)は、観客である我々も術中にはまり、稀代の殺人鬼を受け入れてしまうどころか、無罪と信じ込んでしまう魔の魅力がある。Netflixのオリジナルドキュメンタリー『殺人鬼との対談: テッド・バンディの場合』(19年)も手掛けた俊英ジョー・バリンジャー監督が生み出したのは、心底恐ろしい映画だった。

まさかのラブストーリー仕立て

『テッド・バンディ』の恐ろしさは、一言でいうと「ギャップ」にある。殺人鬼を描いた映画だからこう来るだろうという観客側の“前提”を、ほぼ全て覆してくるのだ。本稿では、その構造的な特異性を中心に紹介していきたい。

まずは、婚約者の視点で描くということ。テッド(ザック・エフロン)が唯一殺さず、無上の愛を注いだ婚約者リズ(リリー・コリンズ)。本作は2人が刑務所でガラス越しに会話する「現在」から始まり、「過去」へと逆走してまた現在に戻ってくる構成になっている。バーで2人が運命的に出会い、心惹かれ、テッドの逮捕によって引き裂かれ、互いの愛情がゆがみ、衝突し、決裂を経て再びめぐり合う──まるで悲劇のラブストーリーだ。殺人鬼の深層心理に迫るサイコサスペンスを期待した観客は、大いに面食らうだろう。

Photo credit: Brian Douglas

ただ、殺人鬼の恐ろしさを、第三者視点で描くこと自体はそこまで珍しくない。代表的な例は『羊たちの沈黙』(91年)だ。この映画では、FBIの実習生クラリス(ジョディ・フォスター)が、凶悪殺人犯ハンニバル(アンソニー・ホプキンス)に近づいていくという作りになっている。

シリアルキラーやサイコパスという突き抜けた存在と観客をつなぐために、第三者を主人公として配置する。これは非常に親切なアプローチといえるし、『テッド・バンディ』がその方式を踏襲したと考えることもできる。

だがここで注目したいのは、テッドの描かれ方だ。本作では全編にわたって、テッドを「異常者」として演出していないのである。テッドが異常性を垣間見せるのはほんの一瞬だけ。保護犬シェルターで犬と対峙するシーンだ。テッドと向き合った犬は、異常なほどおびえ、威嚇する。言葉の通じない動物だけが、本質を見抜いているのだ。ただ、隣にいるリズはこの事態に気づかない。この場面が錨のように機能しているものの、それ以外の時間ではテッドはスマートな青年として描かれる。

Photo credit: Brian Douglas

彼が殺人犯であるという事実を抜きにこの作品を観れば、無実の罪に問われた不幸な青年に感じられるだろう。つまり、テッドという人間に対するイメージ自体が、「殺人犯」という先入観を取り去るように設計されている。

現代に生きる我々が見ればテッドは殺人犯だが、もし当時、何も知らずにこの青年と出会ったら、どんな印象を受けるだろう?そういった意味で、この映画はリズと観客が同じ目線を「共有」する構造になっており、それが後々「愛した人は、最凶最悪の殺人鬼だった」という恐るべき衝撃を伴って戻ってくる。

テッドを「普通の人」として描くおぞましさ

先ほども述べたとおり、劇中で描かれるテッドは、女性なら誰もが恋に落ちてしまうような魅力的な男性。犯罪者らしいそぶりは一切なく、善良な人間にしか見えない。仮に「殺人鬼である」という先入観を持って観始めたとしても、時間が経つにつれてその輪郭は霞んでいくだろう。『グレイテスト・ショーマン』(18年)の好演が記憶に新しい人気スターのザック・エフロンを主演に据え、彼ならではの人好きのするオーラを実に効果的に用いている。

愛する人は本当に殺人犯なのか?リズを苦しめる疑念は、我々観客がテッドに抱く感情と同じだ。これは意図的に隠されているとか演出されてテッドが善人に見えるのではなく、犯行現場を観ていない我々にとっては「分からない」のだということ。この事実に根差した視点が、本作の最大のおぞましさともいえる。

Photo credit: Brian Douglas

『テッド・バンディ』で描かれるのは、リズと過ごすテッドと、その後の裁判シーンのみ。映画の外にある「事実」を盾にしない限り、我々にはテッドが殺人犯かどうか判断できない。信じたいという気持ちだけが、宙ぶらりんに揺れている。

この感覚に非常に近いのは、吉田修一の傑作小説を映画化した『怒り』(16年)だ。この映画では、指名手配犯と似た風貌の男たちと知り合った人々が、千葉と東京、沖縄というそれぞれの地で、「自分が愛した人は殺人犯ではないのか?」と苛まれる姿が描かれる。

『テッド・バンディ』のリズが体感する苦しみはこれに近しく、自分の目で見て好意を抱き、共に時間を共有した愛する人が、世間では殺人犯扱いされていることに対する「見解の相違」に身が引き裂かれそうになっていく。自分の価値観や判断基準がガラガラと崩れ落ちていくとき、幸せだった時間が狂気に浸されていたと思い知る。

ただ、殺されなかっただけ。運が良かっただけ。私は殺人鬼と暮らしていた──。テッドと過ごした時間すべてが全く別の意味を伴って再生されるリズの回想シーンは、全身に悪寒が走るようだ。「彼は殺人犯。自分は殺されていたかもしれない」「彼は殺人犯じゃない。信じたい」という真逆の感情がせめぎ合うなか、彼女は何を支えにすればいいのか……。『怒り』も本作も、人間の弱さを的確に突いてくる映画だ。リズが隠していた最大の事実──警察に通報した“犯人”は彼女だった、という展開も、『怒り』の千葉編と同じ。

だが、両者には決定的に違う部分がある。『怒り』で描かれたのは「信じたい」という切望に似た哀しみだったが、本作で描かれるのは「信じた結果待ち受けていた絶望」だ。ラスト十数分、刑務所でガラス越しに面会したリズに、テッドは凶器が何だったかを打ち明ける。その瞬間、か細くもまだつながっていた信頼の糸はぷつりと切れる。そして『テッド・バンディ』は初めて、シリアルキラーものらしい殺害シーンを映し出す。女性を惨殺し、狂気の表情を見せるテッド。だが、そこで我々が抱く感情は、答えが出た安堵感などではない。長い悪夢からさめたような徒労感と絶望だけだ。

『怒り』はフィクションだが、『テッド・バンディ』は実話もの。事実は何をどうやっても動かない。私たちははじめから、答えを知っている。それにもかかわらず“真相”が白日の下にさらされたときに、言語化できないほどのショックと破壊的なまでの徒労感に包まれるのは、本作が憎たらしいまでに狡猾に、人間の心根の本質を描き切っているからに他ならない。

Photo credit: Brian Douglas

暴力描写の排除が、かえって恐怖を呼ぶ

『テッド・バンディ』にはもう1つ、驚異的な仕掛けが施されている。それは、「暴力描写がない」ということ。ラストのどんでん返しまで事件の詳細はセリフでしか語られず、どこか遠い国の出来事のよう。目の前にいるテッドと、事件が結びつかないのだ。

テッドは終始クリーンな男であり、他の映画の多くの殺人鬼のように血まみれでひきつった笑みを浮かべたり、凶器をコレクションしたり、あまつさえ殺人鬼が主人公の『ハウス・ジャック・ビルト』(19年)のようにシリアルキラー感丸出しで人命を奪うなんてことはない。

Photo credit: Brian Douglas

映画の中のテッドは、車を運転している最中に警官に呼び止められて逮捕されてしまい、その後はずっと裁判で無実を証明しようとするだけだ。本人が「自分は無関係だ。これは冤罪だ。僕は誓って無実だ」と一片の曇りもない表情で訴え、我々もその姿を眺めているうちに、彼の発言が真実だと思えてくる。

裁判で不利な状況に追い込まれても、テッドは余裕を崩そうとしない。その姿が返って「本当に無実なのではないか」という疑念を増幅させ、観客の感覚と事実が相克する。知らないうちに魅了され、取り込まれている──テッド・バンディの恐るべきカリスマ性を、我々も肌で味わっているのだ。

Photo credit: Brian Douglas

テッド・バンディという男が殺人鬼と知っていながら、なぜこのような現象が起きてしまうのか。材料が与えられていないこと、テッドを愛するリズの描かれ方が共感を誘うから(リリー・コリンズの震えるような繊細な演技が素晴らしい)、ザック・エフロンのあまりにも純粋な演技に呑み込まれるからなど、様々な要因や理由はあるだろうが、これまでにも述べてきたとおり、「信じられない、信じたくない」という部分が決定打のように思う。

私たちはいつだって、集めた情報と自分たちの印象で善悪を判断し、相手をカテゴライズする。この映画は、それを全く否定しない。ただ、事実はそこにはない。そう思いたいから、そのように見ているに過ぎないのだ。何と残酷な真理だろうか。この映画が伝えるものは、何もない。事実は事実だった、と提示するだけだ。

一瞬でもテッドを理解できると思った我々の、思い上がりと愚かしさ──『テッド・バンディ』は、私たちが信じる価値観の脆弱性を静かに浮き彫りにする。人の本性なんて、簡単にわかるわけがない。衝撃のラストシーンを抜けた後に待つのは、無間地獄に突き落とされたような真っ暗な感情だけだ。

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『テッド・バンディ』(原題:Extremely Wicked, Shockingly Evil and Vile)

1969年、ワシントン州シアトル。テッド・バンディ(ザック・エフロン)とシングルマザーのリズ(リリー・コリンズ)とは、あるバーで恋に落ちる。素晴らしい出逢いの一日から始まり、テッド、リズと彼女の幼い娘モリーの三人は、幸福を絵に描いたような家庭生活を築いていく。しかしその運命は一変。テッドが信号無視で警官に止められた際、車の後部座席に積んでいた道具袋を疑われて逮捕されてしまう。マレーで起きた誘拐未遂事件の容疑だった。またその前年にも女性の誘拐事件が起きており、キング郡警察の発表によると、目撃された犯人らしき男の車はテッドの愛車と同じフォルクスワーゲン。新聞に公表された似顔絵は、テッドの顔によく似ていた。突然の事態に混乱するリズ。テッドはすべてまったくの誤解だと説明するが、次第に、いくつもの事件の真相が明らかになっていき……。

原作/エリザベス・クレプファー
脚本/マイケル・ワーウィー
監督/ジョー・バリンジャー 
出演/ザック・エフロン、リリー・コリンズ、カヤ・スコデラリオ、ジェフリー・ドノヴァン、アンジェラ・サラフィアン、ディラン・ベイカー、ブライアン・ジェラティ、ジム・パーソンズ、ジョン・マルコヴィッチ

日本公開/2019年12月20日(金)より、TOHOシネマズシャンテほか全国ロードショー
提供/ファントム・フィルム/ポニーキャニオン
配給/ファントム・フィルム R15+
公式サイト
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