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2019.07.28 18:00

【レビュー】人気俳優の”罪な”監督デビュー作『ブレス あの波の向こうへ』

  • SYO

観る前の第一印象は、王道のサーフィン映画。しかしその中身は、想像とはかなり違っていた。サーフィンを描くための映画ではなく、「少年の成長」を表現するためにサーフィンが登場する映画だったのだ。美しい波乗りシーンはすべて、少年の心を試し、育てる航路となる。

故にこの『ブレス あの波の向こうへ』は、スポーツ映画よりも青春ドラマの空気が漂う。波を征服することが目的のキラキラした汗・涙・友情!ではなく、波を越えた先に待ち受けるセピア色の寂しさと痛みが心を浸す──そんな風合いの映画だ。『イントゥ・ザ・ワイルド』(07年)や『荒野にて』(17年)に連なる、「自然に抱かれ、自分の歩む道を見つける」良作。鑑賞後は、静かで豊かな余韻の波に包まれるはずだ。

『メンタリスト』主演俳優の映画監督デビュー作

日本でも多くのフォロワーを生んだ人気テレビドラマ『メンタリスト』(08〜15年)の主演俳優であるサイモン・ベイカーが、映画監督デビューを果たした本作(脚本・出演も兼任)。これが映画初監督作とは思えない映像美と、先に述べたような洗練された「風格」が高く評価され、本国オーストラリアでは5週連続トップ10入りを果たし、2018年のオーストラリア・アカデミー賞では9部門にノミネートされた。

原作は、オーストラリアで最も権威ある賞といわれるマイルズ・フランクリン文学賞を受賞したティム・ウィントンによる自伝的小説。ウィントンは本作の脚本開発にも協力しており、映画の「深み」の醸造に大きく寄与した。文学的な雰囲気が画面の中にそよいでおり、心地よくも物哀しい感覚を観客の内に呼び起こす。

本作の舞台は、1970年代・オーストラリア南西部の小さな街。穏やかな性格の少年パイクレット(サムソン・コールター)と活発で向こう見ずな友人ルーニー(ベン・スペンス)は、伝説のサーファー、サンドー(サイモン・ベイカー)と出会う。2人はミステリアスなサンドーに憧れ、人生の師と仰ぐようになるが、固かったはずの3人の絆はいつしかほつれていく……。

左より)サンドー(サイモン・ベイカー)、ルーニー(ベン・スペンス)、パイクレット(サムソン・コールター)

「性格が正反対の少年2人がかつての英雄に出会い、才能を見出される」というこの映画のあらすじは、極めて王道だ。主人公とライバル。伝説の男。命の危険をはらんだ競技。まるで今からゴリゴリのスポーツ漫画が始まりそうな設定である。しかし、この映画はそれらの黄金設定を活用しない。むしろそれらをすべてダシに使うところに、本作の面白さがある。

回想形式が引き起こすノスタルジー

まず注目したいのは、この映画が回想形式でつづられるということ。大人になったパイクレットが「あの頃の僕」を語る形で、物語は幕を開ける。この時点で、観る者は切なさの予兆を感じ取るだろう。

回想形式というのは、ある意味ラストが決まっているということ。最終的に現在につながるものだから、安心して観られる反面、驚きもなくなってしまう。しかし、回想形式にはもう一つ大きな役割がある。このスタイルは、「登場人物の変化」を描くうえで非常に効果的なのだ。まず出口(結果)を見せたうえで、回想シーンをすべて「過程」として使う。そうすると、時系列に沿って成長を描くよりも、濃密なものを観たような感覚を引き起こすことができる。観る側の受け取り方が違ってくるのだ。

例えば、サッカーの試合を結果を知ったうえで観ると、敗北した場合は「頑張っているけど負けるんだよなあ」といったような悲劇性を感じるだろうし、勝利した場合は「1点取られてるけどここから逆転するからな」と安心して観られる。この映画は前者の感覚に近く、「今描かれている無邪気な時間が、最終的には切ない終わりを迎えるんだろうな」と、そこはかとない悲劇を常に予感しながら観ることになる。

『スタンド・バイ・ミー』(86年)がそうであるように、大人になったキャラクターが過去を思い返すとき、そこには「偲(しの)ぶ」という感情が生まれる。もう戻れない過日を振り返る時の、その主体は「変わってしまった」自分だ。成長痛とでもいうべき通過儀礼を経て大人になり、何らかの職に就き、新しい家族を作り、別の場所で暮らしている(かもしれない)今、過ぎ去った少年時代はどう映るだろう?

我々が記憶をたどって幼少期に立ち戻るとき、ノスタルジックな感情が不可避なように、この映画もまた、ファーストシーンから作品全体のトーンを静かに、だがよどみなく主張する。これは、かつて感じていた甘さ・痛み・喜びを巻き戻す映画なのだと。そのどれもが今、なくなってしまったか、形を変えてしまったものだと。

美男子たちが巨大な波に挑むエクストリームな映画、という選択肢は早々に消え去り、眼前に広がる凪いだ海原に良質なドラマを期待する──。恐らく開始1、2分で、作品に対する先入観が崩れ去っているのではないか。これは実際に観ることで生じるギャップであり、ポスターや予告編だけでは予測しづらい部分。サーフィンのシーンは見ごたえたっぷりだが、ベイカー監督が目指す目的地は、波の向こうにあるのだ。

サーフィンを通して描いたものは?

この映画のサーフィンには、単なるスポーツ以上の意味がある。それは、「体験」だ。本作では大きく分けて2つの体験が描かれ、その1つを担うのがサーフィン。もう1つは文字通り「初体験」となる。少年たちを大きく変える2つが示すものは、「欲望」と言い換えることもできる。

田舎町でスリルに飢えていた2人の少年は、サーフィンに出合ったことで生きがいを見つけ、波という試練を乗り越えることに夢中になる。最初はゲーム感覚だったが、次第にサンドーを奪い合う別の戦いへと発展し、2人の関係はこじれていく。サーフィンをしているようで、心は目の前の波に向けられなくなってしまう。

友情の変化へと至る予兆は、冒頭のシーンに表れている。道を走るトラックに突っ込む度胸試しを行おうとするルーニーに対して、パイクレットは辞退するのだ。進む者と留まる者。これが2人の関係性だったが、サーフィンに対しては共にハマったため、構造が崩れてしまう。パイクレットとルーニーは初めて両者を「競争相手」として意識し始め、これまでになかった嫉妬や羨望を相手に抱くようになる。冒頭、本作は「成長」を描いていると述べたが、この作品では少年たちが不純な感情を知っていくことで、大人へと歩を進めていく。サーフィンがピュアなものとして描かれない、この味付けが特長といえる。

大波の渦の中を華麗に潜り抜ける見せ場のシーンでさえ、悲しみと怒りとやりきれなさが浮かんできてしまう切なさ。パイクレットが成功すればルーニーは絶望するし、その逆も然り。さらにパイクレットには、「波が怖くなる」という試練も待ち受けている。命の危険を越えてまで波に乗るのは、本当にやりたかったことなのか?そのような「ブレーキ」を認識し、自分の限界値を悟る──成長には、前提として自分自身の能力の把握が必要だ。しかしそれは、無邪気な日々の終わりでもある。「自分は、何でもできるわけではない」と知ったとき、少年は諦念という感覚を学ぶ。それでも進むのか、立ち止まるのか。どちらにせよ、昨日までの自分ではいられない。

このように、『ブレス あの波の向こうへ』は「好きだったものに、夢中になれなくなる」瞬間を見事にとらえており、その「痛み」が成長のトリガーになっていく。聖域が汚されていくような感覚、自分が純粋さを失っていく実感。これらは我々が「子どもから大人になっていく」過程で実際に経験した肌感覚と非常に近い。サーフィンのシーンをすべて「使って」、複雑化していく心の変遷を表現したベイカーの監督としての才覚は、最早ベテランの域に達している。

パイクレットやルーニーのサーフィンが、自己完結(自己満足)であることも非常に重要だ。伝説のサーファーだったサンドーに至っても、栄光の日々はすでに過去。彼らにとってサーフィンとは自己表現で現実逃避であり、はたまた安らぎなのだ。だが実際には、サーフィンをすればするほど、パイクレットは陰の方に引っ張られていく。何もない海原は、取り繕った虚勢をさらい、内に眠る負の感情をむき出しにする。

主演俳優は演技未経験のサーファー

ピュアだった少年たちが、これまでになかった感情を知っていく。

それを表現するために、本作ではある興味深い試みがなされた。主演俳優2人を、演技未経験のサーファーから選出したのだ。ベイカー監督は「サーフィンを学ぶより演技を学ぶ方がスムーズ」とその理由を語っているが、無論それだけではないはずだ。この映画には、圧倒的な「擦れてなさ」が必要不可欠だった。それを担うのが、俳優たちだったのだ。

SNSも駆使した約1年にわたるオーディションで選ばれたサムソン・コールターとベン・スペンスは、撮影時にはそれぞれ15歳と16歳。2人とも生粋のサーファーであり、演技の面でも製作者の狙い通りの、まっさらな魅力を放っている。

例えば『ムーンライト』(16年)の主人公を演じたキャストたちがオーディションで見出されたように、新星でなければ「染まっていく姿」をうまく表せない。観客としても、少年たちを役者として知っていると、抱く印象がまるで違ってしまう。

俳優としての経験が豊富なベイカーが監督を務めたからこそ、「演技未経験者を使う」方法論は正しく機能した。ベイカーは劇中、サンドーとして演技面でも2人を引っ張り、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』(17年)で知られ、クリストファー・ノーランの新作『Tenet(原題)』にも出演するエリザベス・デビッキが、儚くも色香漂う演技で少年たちを大人の世界へと連れていく。この作品は、実力者たちの薫陶を受け、少年サーファーたちが作品にのめり込んでいく姿を追った、ドキュメンタリー的な側面も強い。

『ブレス あの波の向こうへ』は、パイクレットとルーニーという美少年が「サーフィン」を知ってしまったことで大人へと変化していく物語だが、サムソン・コールターとベン・スペンスという2人の一般人が、「演技」を知ってしまうノンフィクションでもある。つまり、計4人の「成長」だ。

あれだけの存在感を発揮してしまったコールターとスペンスは、もうこれまでの生活には戻れないだろう。彼らがこの先、芸能界という波に乗るのかサーファーとして生きていくのか、はたまた別の将来を選ぶのかはわからないが、才能を見出し、道を示すというのは何とも罪な行為だと改めて考えさせられる。「自分が導くのは、ここまで。後は自分で選ぶんだ」──これもまた1つの、師匠サイモン・ベイカーからの「教え」なのかもしれない。

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『ブレス あの波の向こうへ』(原題:Breath)

オーストラリア西南部の小さな街。内向的な少年パイクレットは、好奇心旺盛な友人ルーニーの無鉄砲な行動に影響を受けながら、彼の後を追うように日々過ごしていた。ある日彼らは、不思議な魅力を持つ男性サンドーと出会い、サーフィンを教えてもらうことになる。暇を見つけてはサンドーと妻イーヴァが暮らす家に通い出す2人。彼らにとって、大人の女性イーヴァの謎めいた存在感も刺激となっていた。サンドーはいつしか彼らを命をも脅かす危険な波へと挑ませ、恐いもの知らずのルーニーはスリルを楽しむように果敢に挑戦するがパイクレットは…。

原作/「ブレス」ティム・ウィントン(佐和田敬司訳/現代企画室刊)
監督/サイモン・ベイカー
脚本/ジェラルド・リー、サイモン・ベイカー、ティム・ウィントン
音楽/ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ
撮影/マーデン・ディーン
出演/サイモン・ベイカー、エリザベス・デビッキ、サムソン・コールター、ベン・スペンス、リチャード・ロクスバーグ
2017年/オーストラリア/115分/カラー/5.1ch/ビスタ/日本語字幕:小路真由子

日本公開/2019年7月27日(土)新宿シネマカリテほか全国順次公開
配給/アンプラグド
後援/オーストラリア大使館
公式サイト
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