Review

2019.01.25 19:30

【レビュー】18年間の「空白」は必然だった──ヒーロー飽和時代への強烈なアンチテーゼ『ミスター・ガラス』

  • SYO

2017年に日本公開されたM・ナイト・シャマラン監督作『スプリット』のラストの衝撃は、未だに記憶に新しい。シャマラン監督による異端の傑作『アンブレイカブル』(01年)との、まさかのつながりが明示され、その直後に『アンブレイカブル2』=『ミスター・ガラス』が発表された。“シャマラン・ユニバース”とでもいうべき夢のプロジェクトの始動に、世界中の映画ファンが歓喜した。自分もその1人だ。

 

公開を今か今かと待ち構えて、劇場に勇み足で駆けつけた。そうして観届けた本作は、「面白い」などというレベルを凌駕していた。『アンブレイカブル』から本作へ──18年越しの“仕掛け”に、誇張でもなんでもなく鳥肌が立ってしまった。

 

この作品は、スーパーヒーロー飽和時代に、強烈なアンチテーゼを突きつける叛逆映画だ。

 

 

ヒーローが「疾患」とされる社会のおぞましさ

『ミスター・ガラス』で描かれるのは、ヒーローが「疾患」とされる社会。より正確にいえば、ヒーロー自体を排除しようとする社会構造だ。これは珍しいことではない、と思う方もいるかもしれない。スーパーヒーロー映画において、「正義の所在」はたびたび取りざたされてきたテーマだからだ。

 

例えば、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(16年)では、アベンジャーズがヴィジランテ(自警団)化する危惧から内部分裂した。『LOGAN/ローガン』(17年)では、「ミュータント狩り」が横行し、『Mr.インクレディブル』(04年)では、ヒーロー活動自体が禁止。ハリウッド実写化が発表された日本の大人気漫画『僕のヒーローアカデミア』では、ヒーローを資格制にすることで秩序を保つ、といった措置が描かれる。幾多の作品の中で、特殊能力を持った個人 vs. 社会といった対立構造が描かれてきた。

 

『ミスター・ガラス』が描いた世界は、よりおぞましい。「ヒーロー」というものの存在自体を消し去ろうとする人々が描かれるためだ。

 

上に挙げてきた作品群では、ヒーロー、あるいは超人たちを排除こそするものの、存在自体を「なかったこと」にはしない。最低限の人権や発言権は認められている、と考えることは出来る。少なくとも、そういう存在自体は認知されている。

 

だが、『ミスター・ガラス』においては、能力者は捕らえられ、監禁され、治療され、洗脳される。『アンブレイカブル』、『スプリット』で活躍したデビッド(ブルース・ウィリス)、イライジャ(サミュエル・L・ジャクソン)、ケヴィン(ジェームズ・マカヴォイ)ら3人は、精神病院に拘束されて「お前は普通の人間だ。能力なんて持っていない。全て妄想だ」と呪文のように刷り込まれ、アイデンティティを喪失しかけていく。

 

 

この作品は、端的に言えば「普通じゃない」のだ。僕たちが慣れ親しんでいるスーパーヒーロー映画とは、根本的に立ち位置が違う。15分も観ていけば、本作の特異性に気づくはずだ。予測が出来ないだけでなく、『ミスター・ガラス』は観客の心理や固定観念をぐらぐらと揺さぶり、スクリーンから目を離させてくれない。

 

『ミスター・ガラス』は、“少数派映画”

個人的な印象を話すなら、この映画はスーパーヒーロー映画というよりも、むしろマイノリティの叫びを描いた「少数派映画」のカテゴリーに入ると考える。

 

『ある少年の告白』(19年4月公開)などのLGBTQを題材にした作品や、『ビール・ストリートの恋人たち』(19年2月22日公開)などの黒人のリアルを描いた作品と同じ、“マイノリティの受難”に鋭く切り込んでいるからだ。

 

そう、この作品においては、ヒーローとヴィラン=人間を超えた存在は能動的に他者を救う“権利”を剥奪され、『パッション』(04年)のキリストや『沈黙 -サイレンス-』(16年)の宣教師のように、ひたすらに試練に耐え忍ぶ姿が(上記2作品ほど痛々しい描写はないにせよ)映し出されていく。(イライジャ=ミスター・ガラスが痛みを蓄積する存在として描かれていたのは、キリストのようなカリスマ=神格化するため、というのは考えすぎだろうか?)

 

上記からも推察されるように、『ミスター・ガラス』においては、僕たちが持っている「スーパーヒーロー」の定義は一切通じない。

 

シャマラン監督(左)

 

では、シャマラン監督はスーパーヒーローの定義を刷新し、観客をどこに連れて行こうとしているのか?ここからは、前作『アンブレイカブル』を例に、考えていきたい。キーワードは、「18年間」だ。

 

前作からの18年で、映画界に何が起こったか

『ミスター・ガラス』の舞台は、実時間と同じく『アンブレイカブル』から18年後だ。この18年というのは、必然の年月だったと僕は考えている。

 

2001年に日本公開された“早すぎた”スーパーヒーロー映画『アンブレイカブル』は、正直に言ってしまえば当時中学生だった僕には全くといっていいほど分からなかった。あの映画では、自分がヒーローじゃないか?と悩む警備員デビッド(ウィリス)、自分の存在意義を探しているコミック専門の画商イライジャ(ジャクソン)の葛藤にフォーカスが当てられ、全体的にシリアスでダークで静謐(せいひつ)な仕上がりだった。乱暴な言い方をしてしまえば、時代がまだ追い付いていなかった感がある。

 

 

スーパーヒーロー映画では、2000年に日本公開された『X-MEN』も、人口に膾炙しているとはいいがたい状況だった。アメコミはまだまだ劣勢で、スーパーヒーローが社会に溶け込んでいるという環境が日本では「理解できない」ものだったのだと思う。

 

あくまで私見だが、契機となったのは2002年の『スパイダーマン』の爆発的ヒットではないか。あの作品によって、「明るい」ヒーロー映画が注目され、2、3と作られていく中で日本でもヒーロー人気が高まっていった。そして2008年の『アイアンマン』から始まるマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の世界的ヒットと、2008年の『ダークナイト』がスーパーヒーロー映画の常識を覆したことを受けて、映画界においてもそして人々の心の中においても、スーパーヒーロー映画の立ち位置はまるで変わった。いまや、街に出ればマーベルTシャツを着た若者に出くわす状況だ。

 

そんな中で一部の映画好き以外からは忘れられた問題作が、『アンブレイカブル』だ。というのも、この作品は二重構造になっていて、「ヒーロー不在の社会を、ヒーロー大国のアメリカはどう見るか?」という部分に面白さがある。マイノリティであることの苦しみが、肌感覚としてわかるからだ。

 

つまり、この映画の芯の面白さを享受できる「条件」は、「スーパーヒーローが身近な状況」なのだ。日本においては、ウルトラマンや仮面ライダーはあれど、生身で戦うものではないからこの感覚が分かりにくい。ようやく今、マーベルやDCが押し広げてきた努力の蓄積で、僕たち日本人にとって『アンブレイカブル』に込められた「痛み」が伝わるようになってきた。

 

そのタイミングで放たれるのが、この『ミスター・ガラス』である。くしくも第1次『アベンジャーズ』が終わる2019年に。これが偶然の一致とは、どうしても思えない。シャマランのことだから、すべて予見していたのではないだろうか。世界中の映画好きが、自分と同じビジョンを描けるようになる日を。きっと彼は、ずっと待っていたのだ。そう思わせてしまうだけのリアリティが、本作には十二分に宿っている。鳥肌が立つほどに生々しく、ヒーロー飽和時代に切り込みを入れる強烈な叛逆映画。マーベルもDCも、この18年間に起こった映画界や観客の変化も全てを伏線にしてしまう圧倒的な脚本力。

 

観客とシャマラン監督がビジョンを共有した状態で放たれる「スーパーヒーローの在り方」は、エンドロールを見終えた後も、映画館を後にしてからも、ずっと脳裏に刻まれ、こだまするだろう。

 

 

この映画の“敵”はどこにいる?

この映画の強烈な部分は、「敵」の描き方にもある。

 

『ミスター・ガラス』で描かれるのは、デビッド、イライジャ、ケヴィンを精神病院に閉じ込め、「治療」しようとする人々の姿だ。この作品の中では、前述したとおり、ヒーローもヴィランも隔離され、世間から触れられないようにして処理されんとする。この映画の敵は「権力」ともいえるだろう。

 

本作では、サラ・ポールソン演じる研究者を媒介にして、権力が彼らの存在を消去しようとする。「あなたたちはヒーローではなくて精神病なんです」、という説得治療まで行うのだ。なんと痛ましいストーリーだろうか。アイアンマンやスパイダーマンが、いかに恵まれた社会の中でヒーロー活動を行っているのか。バットマンでさえ、その存在は認知されていた。この映画の彼らには、生きる場所も、息をする権利さえ与えられない。

 

 

未見の方は、ラストの大立ち回りがどこで行われるのか、に注目してほしい。その場所にせねばならなかった意味に思い至ったとき、とてつもない哀しみが去来するだろう。

 

「自分は、自分だ」という叫び

個人 vs. 権力。この対立構造が生まれて初めて、『アンブレイカブル』『スプリット』と続いてきたシャマラン・ユニバースは本当の姿を見せ始める。この3部作で描かれてきたことは、「自身の存在意義」だ。

 

誰しもが一度は悩む、そのテーマ。大抵は趣味や仕事にその答えを見つけるものだ。だが、彼らにとっての「ありのまま」が隠されてしまったら?ヴィランになるしかなかったマグニートーも生まれながらの悪であるジョーカーも、“自分”を周囲に誇示して生きてきた。ヒーローとの信念のぶつかり合いはあれど、存在自体を否定されることはなかった。

 

『ミスター・ガラス』では、それすら許されない。生きることが認められないという絶望と孤独。行き場のないの怒り。文字通りの牢獄だ。

 

『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』(18年)では、ヴィランであるグリンデルバルドが「自分たちの平等な権利」を訴えて革命を起こした。魔法使いは隠れなければならないという理を許すことができないからだ。あの作品は、キャラクターそれぞれが自分の在り方を模索する姿が描かれ、娯楽性の中にどす黒い波紋を広げていた。

 

『ミスター・ガラス』では、その「選択」すらむしり取られる。監禁された3人は、それぞれ弱点を暴かれ、いつでも処刑できる状態で「治療」を受け続ける。そうしてそれぞれが「自分は本当は超人ではないのではないか?」という疑心暗鬼にかられ、心身ともに極限まで追い詰められながらも、こう叫ぶ。「自分は、自分だ」と。

 

この映画の終盤からラスト、あなたは何を思うだろう?

 

ただのヒーロー映画などではない。
この作品で描かれるのは、生まれ落ちた意味を探しもがき続けるただの「人間」の姿だ。

 

全ての人に平等を。そう訴える作品が次々と生まれている昨今。『ミスター・ガラス』は、次代を拓く「2.0」となるだろう。

 

 

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『ミスター・ガラス』(原題:Glass)

キャスト/ブルース・ウィリス、サミュエル・L・ジャクソン、ジェームズ・マカヴォイ、アニャ・テイラー=ジョイ、スペンサー・トリート・クラーク、シャーレーン・ウッダード、サラ・ポールソン
監督・脚本/M. ナイト・シャマラン
製作/M.ナイト・シャマラン、ジェイソン・ブラム、アシュウィン・ラジャン、マーク・ビエンストック
製作総指揮/スティーヴン・シュナイダー
全米公開/2019年1月18日

 

日本公開/2019年1月18日(金)より、全国ロードショー!
配給/ウォルト・ディズニー・ジャパン
公式サイト
©Universal Pictures