Review

2018.09.02 18:00

“量子世界”とは一体なにか?『アントマン&ワスプ』を物理学的に考察する

  • Joshua

量子──およそ日常生活ではまず滅多に耳にすることのないこの言葉が『アントマン&ワスプ』では怒濤のように飛び交う。「これから量子世界に突入する!」だとか「そうか、量子エンタングルメントで意識を共有したんだ!」といった具合に。

難解な科学用語が頻繁に登場してくるあたりが、今作が前作『アントマン』(15年)から受け継いでいる魅力のひとつでもあり、どこか子供心を刺激するものでもある。しかし、いくら『アントマン&ワスプ』に量子力学の概念が数多く登場すると事前に分かっているからといって、「よし、じゃあ観る前に量子力学を学んでおこう」なんてことを思う人は余程のアントマン好きであってもいないだろう。第一、量子力学の理解を必要とするマーベル作品があるわけがないし、そんな野暮なことをしても仕方がない。

さて、今回はそんな”野暮”なことをやってみてしまうという企画である。つまり『アントマン&ワスプ』に登場する量子力学の根本的な概念を理解することで、いつもなら素通りしてしまうディテールの面白さを堪能しようというものだ。

なるべく科学描写を誠実に行ったため、小難しく感じるかもしれないが”量子力学”を理解する上でその感覚は正しい。量子力学が描写する結果は『アントマン&ワスプ』でも言われているように常識外れなのである。

一旦『アントマン&ワスプ』から離れるが、必ず戻ってくるので少し辛抱していただきたい。さあそれでは、”量子世界”とやらに飛び込んでしまおう。

光は粒か?波か?

今室内にいる人は近くの照明を見つめてほしい。もし外にいるのであれば太陽を見上げてみよう。ここで簡単な疑問をぶつけてみたい。その光、粒だろうか?波だろうか?

光源から発せられた光があなたの眼に届くとき、その光を自分なりにイメージしてみたい。その光は海の波のようにあなたの眼に届いただろうか?それとも小さいピンポン球のような粒だっただろうか?いや、もしくは連続な直線をイメージした人もいたかもしれない。しかし光の正しいイメージはどれが正しいのだろうか?

19世紀末までの間に、人類は物理学という巨大な望遠鏡を手に入れ、自然界に潜む物理法則を発見してきた。手に持ったりんごは地面に落ちるという至極当たり前の法則から、太陽の周りを公転する惑星らの運動を規定する法則に至るまで、数式を道具として用いることで私達を取り巻く自然に隠されていたルールを暴いていった。(ここでいう”ルール”とは物理法則のこと。道路交通法のような法律と”守るべきもの”という点で本質的には同じようなものである。ただし、法律を破ることは可能だが物理法則を破ることは出来ない)

ニュートン力学では物体が「いつ、なにが、どこに」あるかを知ることが出来ればその時点を現在として、物体の未来を見事に言い当てることが出来る。例えば野球ボールを地面から45°くらいの角度で投げたとき、投げたボールがどのような軌道を描くかはボールが手を離れた瞬間にはすべては決まっている。投げたコインの裏表といった本来確率で表現されるようなものも、厳密に言えばコインを投げた瞬間に結果は決まっているのだ。いや、もっと前の段階、コインを手に取った瞬間にすでに未来は決まっているのかもしれない。もしかしたら、さらにもっと前の段階で……と、このように我々の身の回りで起きる全ての出来事が過去、もしくは現在の出来事のみによって決定しているとする立場を決定論といい、ニュートン力学はこの意味で非常に決定論的な物理学である。

根本的に決定論的な物理学が月日を刻むごとに発展していく急激な流れの中にいた当時の学者たちは、人間が世界を完全に理解し、自然を思うがままに利用することが出来るようになるのは時間の問題だと考えていた。しかしその考えを根底から覆し、人間の常識を易々と粉々に破壊するだけの世界が自然には隠されていた。その驚くべき世界では、完璧だと思われていたニュートン力学は一切通用せず、まったく新たなルールに支配されている。そのため今までのニュートン力学といったルールは全て古典力学と呼ばれ、ここに新たな自然のルール(物理学)が誕生することになる。この全く新しい物理学を量子力学と呼び、量子力学に支配される世界を量子世界と言う。そして最も量子力学的な効果が現れるのがとにかく小さいミクロの世界(量子世界)……アントマンが突入することになる世界である。

量子世界におけるアントマン。本当のことを言うと原子は目には見えない。原子の大きさは光の波の長さよりも小さいため、いくら頑張っても見ることは叶わない。それにそもそも人間がアントマンのように小さくなると、目や鼻や耳といった器官は機能しなくなる。例えば昆虫のような小さな虫が人間とは違った感覚器官を持つのは、そのスケールで最も合理的な構造だからである。しかしピム博士は天才なのでそんなことは問題にもならない。

さて、ここで光の話題に戻ろう。

光は粒なのか波なのかという問題が先の量子力学とどう関係するのだと思われるかもしれないが、実は量子力学が誕生したきっかけになったのが、この光の問題である。

物理学者達の間でも意見が割れた原因は、光が粒としての性質を持つと同時に波としての性質を持っていたからである。音は空気を振動させる波として有名だが、隣の部屋の笑い声や自分の背後からも音を聞くことが出来るのは音が回り込むという性質を持つからであり、これは波独自の性質といえる。歴史的にはこういった波独自の性質が光の実験では数多く観測され、一時「光は波である」という結論に至ったこともあったが、アインシュタインの光電効果という粒子性を強く主張する実験結果を得たことにより、光の粒子性が確かめられることになる。

水掛け論に陥りつつあるこの光の波動性と粒子性の議論は、意外な形で終わりを迎えることになる。物理学者達が至った結論はいたってシンプル、「光は粒であり、波である」というものであった。ここが量子力学の入り口、相反する2つの性質の同居──粒と波の二重性である。

AかBかどちらか?という議論をしていたのに、答えはAかつBであるという身も蓋もない形で終着を迎えた光の問題……このような奇妙な結論は光以外にも適用されることになった。

この文章を読んでいるあなたの体は原子(アトム)で出来ている。そしてあなたの体だけじゃなく、手に持っているスマホ、座っている椅子、目の前のテレビ……などこの世のありとあらゆるものは原子という小さな構成単位で出来ている。光に二重性があるのならば、原子を構成している電子にも同じことがいえるのではないだろうか?そのように考えた物理学者が入り口まで来た量子力学の扉をついにこじ開けることになる。

察しのいい人であれば勘づいたかもしれないが、そう、電子も光と同じ二重性を持つことが分かっている。しかしこれまでの議論はあくまで光や電子が粒であり波であるという事実を確認したに過ぎず、古典力学でみられた数学的な”予言”はなされていない。光や電子の二重性が確かめられた上で次に問題となるのが、光や電子の”波”をどう表現するのかという極めて数学的な問題である。

量子力学と波動関数

ビル・フォスター先生(写真)のカッコいい登場シーンの背面の黒板式も勿論量子力学だ。

電子の波動性が見つかった後に、電子は波動関数として存在し、状態の重ね合わせが可能になる。順を追って話そう。

まず電子という目には見えない小さなモノを、ニュートン力学のように正確に場所を言い当てるために、その波の形を数式に翻訳する必要がある。物理学者達は電子の波を波動関数として表すことに成功したが、これは今までのニュートン力学(古典力学)に別れを告げることを意味する。なぜなら電子の波、つまり波動関数は確率波なのである。

ここに二重性以上の量子力学の奇妙な見方が見られる。電子の波動関数を海の波で例えたい。電子が持つ波動性は海のような波として認識して良いが、”波”の意味が私たちの常識とは大きく異なる。電子は海の波のように伝播するが、その波は電子そのものではなく、「電子がどこに出現する確率が高いか」というある種の指標のようなものを意味する。つまり電子の波動関数は、波が高い地点では電子がいる確率が高く、波が低い地点では電子がいる確率が低くなるということを情報として表現したものである……というのが量子力学が唱える帰結である。

つまり確率である以上電子の位置を正確に言い当てることは出来ない。電子の居場所は「どこにあるか」と聞くのは正確ではなく、「ここからここまでの範囲に電子が存在する確率はどのくらいか?」と聞くのが正しい。原子レベルのミクロなスケールの世界では私たちの常識が通用しないと言ったのは、このような奇妙な見方を用いない限り原子世界の現象を説明することが出来ないからである。物体が「どこで、どんな風に」動いているかを決定するのは容易いことだと思われていたが、そもそもそんなことは波動性により原理的に不可能。この考え方が量子力学における根本原理である。

さて、長い間、量子力学の発展の歴史を追ってきたがここで『アントマン&ワスプ』に話を戻そう。

『アントマン&ワスプ』と量子力学

「電子を波動関数という確率波で表現する」という自然の捉え方は状態の重ね合わせという考え方を示唆する。

思い返してみれば分かるように、海の波はどこもかしこも一定な波ではない。波が高いところもあれば低いところもあるし、いくつかの波が重なり合って大きな波が形成されているところもあれば、打ち消しあって小さな波になっているところもある。電子の確率波も同じで、無数の波が重なり合って1つの波を形成している。量子力学ではこの無数の波それぞれが電子のひとつ状態を意味し、それぞれの状態が重なり合うことで電子は存在する。つまり電子が地点1で発見されるような状態を|状態1>と書き、地点2で発見されるような状態を|状態2>と書けば電子の真の状態は|状態1>+|状態2>という風に書き表すことが出来るわけだ。

『アントマン&ワスプ』のヴィランとして登場するゴーストは、量子研究による事故が原因で体を透明にする能力や自在に壁などを通り抜ける能力を持つ。この能力が直接的に量子力学と関係があるわけではないが、ゴーストの造形に着目してほしい。ゴーストは左に動く姿と右に動く姿、斜めに動く姿が互いに重なり合ったかのような動きを見せアントマンらを困惑させる。このゴーストの姿はまるで電子のように状態の重ね合わせが起こっているようである。ゴーストの造形そのものが量子力学における波動関数を象徴しているという点を私たちは汲み取ることが出来るのである。

アントマンらが突入することになる量子世界は、常識が通用しない世界だと繰り返し聞かされる。量子力学を知った私たちはいかに量子世界という世界が常識の通用しない世界なのかを実感することが出来ているし、なおそこに突入することの言いようもない恐ろしさを感じ取ることが出来る。

今作にはもちろんゴースト以外にも量子力学の特徴を象徴した描写が数多く登場する。そのすべてを紹介してしまったらネタバレになってしまうため控えるが、量子力学の根本的な部分を理解出来たら、是非『アントマン&ワスプ』のどこに量子力学の考え方が隠されているか見つけてみていただきたい。スコットと同じように量子世界の旅を楽しもうじゃないか。

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『アントマン&ワスプ』(原題:Ant-Man and the Wasp)

バツイチ、無職、前科持ちで、離れて暮らす愛娘だけが生きがいのスコット。脅威の”スーツ“を手に入れたことで、身長1.5cmの最強ヒーロー〈アントマン〉になったものの、ある大事件をきっかけにFBIの監視下に置かれることに…。そんな頼りない彼を支えるのが、アントマンの開発者ピム博士の娘、ホープ。彼女もまた父の開発した”スーツ”と脅威の身体能力で、完璧ヒロイン〈ワスプ〉に!まったく正反対のふたりの前に、すべてをすり抜ける神出鬼没の謎の美女〈ゴースト〉が現れ、アントマン誕生の鍵を握る研究所が狙われる――。敵の手に渡れば、世界のサイズが自在に操られてしまう!? ありとあらゆるものをすり抜けられる能力を持つ強敵から、アントマンたちは世界のサイズを操る”秘密“を守りきれるのか? いま、人もモノもすべてが大小変幻自在の「アリ」えないバトルが勃発する!

監督/ペイトン・リード
製作/ケヴィン・ファイギ
出演/ポール・ラッド、エヴァンジェリン・リリー、マイケル・ダグラス、マイケル・ペーニャ、ハンナ・ジョン・カメン、ローレンス・フィッシュバーン
全米公開/2018年7月6日

日本公開/2018年8月31日(金)全国公開
配給/ウォルト・ディズニー・ジャパン
©Marvel Studios 2018